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助っ人外国人が日本サッカーにもたらしたものって?

  • 倫敦から来た近代スポーツの伝道師―お雇い外国人F.W.ストレンジの活躍
  • デットマール・クラマー 日本サッカー改革論
  • サッカー移民―王国から来た伝道師たち
  • 助っ人外国人が本音で語る 良い日本サッカー もっと良くなる日本サッカー
  • 日本プロ野球助っ人外国人大図鑑―永久保存版


選書 幅 允孝(ブックディレクター)

Profile

倫敦から来た近代スポーツの伝道師―お雇い外国人F.W.ストレンジの活躍

高橋孝蔵(小学館)

欧米列強の進出に端を発した明治維新は、天皇親政体制から西洋的国民国家へ、全く新しい統治システムへと変更した。それに合わせ国全体が近代化へ向かい一気に舵を切っていく。その近代化のために“お雇い外国人”として欧米から様々な分野のスペシャリストたちが来日することとなる。その中のひとり、英語教師として訪れたイギリス人のF.W.ストレンジは、日本に“スポーツマンシップ”を説き、“運動会”を開催し、“部活”のシステムを作り、日本初のスポーツガイドブック『OUTDOOR GAMES』を刊行し、スポーツの普及のあらゆる基礎を作っていった。
ストレンジの母国イギリスで、ラグビーとルールを分けて成立したフットボール・アソシエーション設立が1863年。75年来日の彼はそれを踏まえた上で来日しているはずだ。『OUTDOOR GAMES』にサッカーの記載はあったが、ストレンジはサッカーとはあまり関わっていないそう。73年に海軍兵学寮に招待されたダグラス中佐とイギリス顧問団が始め、74年に工部大学校の教師ライマー・ジョンスによって体育の一環として導入され、同校では盛んにプレーされたというサッカー、ストレンジの功績は個別の競技というより、“イギリス仕込みの最先端の文化としてのスポーツを、パブリック・スクール由来のシステムごと持ち込んで定着させた”ことにある。

デットマール・クラマー 日本サッカー改革論

中条一雄(ベースボール・マガジン社)

日本のサッカーが今のような強さを手に入れられたのは、あるひとりのドイツ人、デットマール・クラマーの功績によっている。東京五輪を4年後に控えた1960年、日本サッカーは国際試合で負け続け、4年後の展望見通しもたたないままだった。強化が急務であると日本蹴球協会は認め、野津会長が推すドイツ人を招くこととなった。条件は、“選手としての経験を持ち、日本代表と一緒に走り回ってもヘコたれない若い人。給料は20万円くらいしか払えないが、年一回クリスマス休暇に帰国する費用はこちらが持つ”というものだった。
クラマーが最初に教えたのは、徹底した基礎だった。キックは、「ゲナウ・ツウ・シュピーレン」、つまり「正確にプレーしろ」という言葉を執拗に繰り返していた。その基本は、プレーに限らずフェアプレー精神の徹底に始まり、グラウンドやボール、用具の整備、体のケア、ケガ対策、食事にまで及んだ。クラマーは、4年間の日本でのコーチ終えるとき、“クラマードクトリン”とも呼ぶべき5つの提言を残している。1:国際試合の経験を重ねること。2:良いコーチを育てること。3:リーグ方式を採用すること。4:コーチ組織を確立すること。5:芝生のグラウンドを維持すること。今となってはどれも当然のことであるが、その当然はクラマーによってもたらされたのだ。この当然を徐々に実行に移していった4年後、メキシコ五輪での銅メダルが待っていた。

サッカー移民―王国から来た伝道師たち

加部究(双葉社)

日本のサッカーが近代化したのは、ドイツ人であるデットマール・クラマーによるところが大きいのは間違いない。だがその裏で選手として、底上げに貢献していたのは、ブラジルで生まれた日系移民の選手たちだった。1908年の正式移民開始以来、100年間で13万人が移住し、150万人以上の日系人がブラジルにいると言われている。
サンパウロで初めて日系人のためのサッカーリーグができたのは、1959年のこと。その後、62年にAUSP(アウスピ)、二世連合会へと発展する。そしてそのAUSPのリーグ戦得点王として、67年に19歳のネルソン吉村が日系人として初めて日本でプレーをすることとなる。ヤンマーがいち早くブラジルへ企業進出していたことが、サッカーにおけるブラジル文化輸入の先駆けとなったのだ。ジョージ与那城に、ブラジルでもヒーローだったセルジオ越後、ジョージ小林などが続いていく。著者は、70年メキシコW杯においてブラジルが魅惑の攻撃サッカーで優勝したことに日本人は強く憧れ、“ネルソンは大局的な意味で、日本サッカー界のドイツ志向からブラジル志向への、フィジカル重視からテクニック優先への転換を導く端緒となった”とも考えられるという。そして、クラマーの多大な功績は認めたうえで、“AUSPが送り出した伝道師たちが、奇しくもクラマーの助言により出来た日本リーグの中で果たした小さな革命の数々を思えば、それは同等以上に価値ある出来事だったに違いない”とも。

助っ人外国人が本音で語る 良い日本サッカー もっと良くなる日本サッカー

中山淳(東邦出版)

1993年のJリーグ開幕時以来、日本には実に多くの外国人選手が来ている。ピークを過ぎ、現役最後の地として選ぶ選手も少なくないが、世界的に見ても欲しがる人材がいたのである。助っ人としてJリーグにやってきた60人の選手がかつて日本のサッカーについて語った言葉と、著者がそれを補足、解説するという構成になっている。彼らは、プレーはもちろん言葉を通して、Jリーグを憂い、励まし、未来を楽しみにしていた。
“日本人選手に一番欠けていたのは、向上心だった。高い給料をもらっている彼らは車も家も簡単に手に入り、それ以上を望む必要がなかった。でも、僕はもっと上を目指そうと彼らに訴えた。(元ベルマーレ平塚/川崎フロンターレ ベッチーニョ)”
“日本サッカーを活性化させるためには、指導力が一番必要とされている。日本人のお手本となる、能力のある人材がね。……だから外国人選手はお金目的だけで日本に行くのではなく、自分の持っている能力を日本人に見せるという役割も果たさなければいけない(元柏レイソル カレカ)”
“10年前のJリーグはゲームの魅力を増すために外国人の力を求めていた。提示された金額が魅力的だったことも、隠さずに話しておく(元浦和レッズ ルンメニゲ)”
“日本人選手のメンタリティや性格はどうしても理解しきれなかった。練習試合で彼らがどう見ても勝とうとする意欲が薄いので聞いてみると、「だって練習試合でしょ」だ。信じられなかった。(元サンフレッチェ広島 ハシェック)”

日本プロ野球助っ人外国人大図鑑―永久保存版

(ベースボール・マガジン社)

“総勢998人歴代全外国人選手写真名鑑付き”と副題にある通り、プロ野球が始まった1936年から、2012年までに活動した全外国人選手が掲載された、とても資料性の高いムック。日本人にとってはサッカー以上に馴染みのある野球。メディアに取り上げられることも多く、外国人選手はその実績だけでなくキャラクターや個性的な風貌など注目されるべきポイントがいくつもあった。
サッカー以上に明確な数字として実績が評価される野球にあっては、自然といい選手は長く残ることになり、その上澄みは人々の印象に強く残る。しかし、本書が取り上げるのは全選手。印象に残っている人も、こんな人いたなーという人も、ファンですら姿を確認していない人まで。
ファンが外国人選手になにを期待し、どんな人が人気者となっていったのかを学ぶことは、Jリーグにとっても実は少々必要なことではないだろうか。プレーが最優先はもちろんだが、個性の演出で人気が出るならそれもまたひとつ。大洋のシピンの髭やデストラーデの真面目顔とメガネ、クロマティの打率とアホさ、ブーマーの腹と三冠王の実力、三振かホームランかのブライアントなどなど。野球はなぜかその個人の特徴と共に覚えている。野球の話しの種になるのは、活躍した外国人選手か面白かった外国人選手のどちらかなのだ。

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幅 允孝(はばよしたか)

BACH(バッハ)代表。ブックディレクター。
国立新美術館ミュージアムショップのスーベニアフロムトーキョーやTSUTAYA TOKYO ROPPONGI、LOVELESSなどにおける本のディレクションや、d-labo(スルガ銀行ミッドタウン支店内)などのライブラリー・ディレクションを手掛ける。ほか、編集、執筆、ディストリビューション等、本周りのあらゆる分野で活動中。最近では、渋谷のSHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS、銀座のHANDS BOOKSがオープンしました。
BACH : http://www.bach-inc.com

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