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前回の東京オリンピックを支えた人たちについて教えて下さい

  • TOKYOオリンピック物語
  • 新装版 デザイン随想 離陸 着陸
  • 東京オリンピックを呼んだ男
  • 東京オリンピック 1964
  • 完全復刻アサヒグラフ 東京オリンピック


選書 幅 允孝(ブックディレクター)

Profile

TOKYOオリンピック物語

野地秩嘉(小学館)

オリンピックの主役はもちろん出場する選手たちである。けれども、選手が出場するに至らなければ、言い方を変えると、大会を適切に開催、運営することができなければ、彼ら/彼女らは戦うことさえできない。オリンピックに初めてシンボルマークを導入したグラフィックデザイナー亀倉雄策と日本のデザイン会を作り上げデザイナーたち、世界で初めてリアルタイムで競技結果を速報した日本IBM、各国から選手村に訪れる1万人分の料理を取り仕切った帝国ホテル料理長の村上信夫、芸術か記録かという論争まで巻き起こしたオリンピック記録映画の監督市川崑、警備会社のさきがけとなった日本警備保障(現セコム)。本書では、東京オリンピックを裏で支えた様々な人々の知られざるエピソードが語られる。
誰もが経験したことのないオリンピック運営。これをきっかけに、たくさんの技術的イノベーションが起こり、デザイナーという職業の確立と地位向上がなされ、さらなる経済成長へとその歩みを進めていくこととなる。本書内では負の遺産については言及がなく、まるでいいコトだらけだったように感じてしまうかもしれない。だが、東京オリンピックをきっかけに、今に繋がるモノゴトがたくさん生まれたのもひとつの事実である。

新装版 デザイン随想 離陸 着陸

亀倉雄策(美術出版社)

戦時中から名取洋之助のもと、対外宣伝誌「NIPPON」などのアートディレクションを手がけ、戦後は日本デザインセンターや東京アートディレクターズクラブ、そしてデザイナーという職業の地位向上と確立、保障を目的とした日本グラフィックデザイナー協会を設立するなど、亀倉雄策は戦後日本のデザイン界の基礎を作ってきた。
そんな亀倉がグラフィックデザイナーとは何か、どれだけ社会に必要な存在であるかを世に示したのが、シンボルマークと公式ポスターをデザインした東京オリンピックだった。亀倉が様々な媒体に発表した短いエッセイや評論を集めた本書にも、東京オリンピックや当時のデザイナーという職業についての様々なことばが収録されている。東京オリンピックのデザインを行うことが決まったあとの原稿で、“よりよい生活、よりよい社会を創り上げるための材料にデザインがならなければならない。よいデザインとはよい社会を作るための良質の材料だということである”と、デザイナーが担うべき役割と責任を語り、デザイナー的視点で東京の象徴としてのネオンサインを世界的な名物にしようとも書く。オリンピックの亀倉、略して“オリガメ”と呼ばれ近所の人々からも愛されたという亀倉。デザイナーへの評価を変えたいという思いは、どこまで叶ったのか。叶い過ぎた面も、まだまだな面もある気がしている。

東京オリンピックを呼んだ男

高杉良(光文社)

フレッド・イサム・ワダ(和田勇)という日系二世の実業家を、どれだけの人が知っているだろうか。和田は、出稼ぎ漁夫としてバンクーバーに渡った両親のもと、1907年にワシントンで生まれる。12歳で家を出て単身働き始めた。17歳で農作物の小売チェーン店に勤務し、二年後にオークランドで独立。日系人コミュニティの中心となって活動するも、太平洋戦争が勃発すると、一部地域で日系人の強制収容が行われることになる。それに抗うようにユタ州へと移り、大規模農園を仲間と経営。そして戦後、ロサンゼルスへ戻ると日本スポーツ界との交流が始まる。1949年、全米水泳選手権に出場する古橋廣之進ら日本代表チームの滞在先として自宅を無償で提供。食事や滞在中の一切の世話を行い、“フジヤマのトビウオ”古橋らが世界記録で優勝するなど、和田の支えのもと日本は戦後からのいち早い復興と存在を印象付けることとなった。
そこから和田は、日本からの様々な依頼に応える形で活動。58年、東京オリンピックを実現しようと動いていた東京都知事、東龍太郎(60年からIOC委員)や日本水泳連盟の田畑政治らに頼まれ、日本への愛とオリンピックへの熱意、そして交渉力と日系人社会のコネクションを活かし、南米9ヶ国のIOC委員へ賛同依頼の行脚を行ったのだ。結果として、その得票がポイントとなり、東京開催が決定。和田は知られざるヒーローとなる。
アメリカに生まれ、その土地に溶け込んで生きていきながら、一方で強烈に日本を愛し、私財を投げ打ってでも東京オリンピック実現しようと奔走した男。バカがつくほど正直でいい人である和田勇という人物を、日本人は忘れてはいけない。

東京オリンピック 1964

フォート・キシモト(新潮社)

1950年代後半から活動を開始した写真家、岸本健を中心とした「フォート・キシモト」は、日本初のスポーツフォトエージェンシーであり、様々な媒体で彼らが撮影した東京オリンピックの写真を目にしているはずだ。そんな彼らが撮った開閉会式や競技写真、選手村、変わる街の風景に、当時発表された記事と文学者らを記者に競技を取材させた『東京オリンピック 文学者が見た世紀の祭典』(講談社)から、いくつかの記事が抜粋されて構成されている。
例えば、眠狂四郎で剣客ブームを起こした作家、柴田錬三郎は、男子陸上100mで優勝したヘイズを“疾風のごとく、という形容を、私は、しばしば、忍者などの疾駆につかうが、ヘイズの走りかたは、まさしくそれであった”と綴るという具合に。この本のおもしろさは、三島由紀夫がヘイズを“空間の壁抜け男”と評したということや、ヘイズ自身が試合を“楽なもんだった”と語ったというような、写真横のさりげないキャプションにもある。誰が勝ったかは結果は調べればすぐにわかる。こうした人々の様々な思いや好奇心が交わるイベントにおいて大切なのは、いろいろな個人の声なのだ。作家の山口瞳は、3位に入賞し、日本人で唯一メインスタジアムでの国旗掲揚を成し遂げた円谷幸吉への記事の中で、戦争を経験し国旗や国歌に抵抗感のある自分が、この日だけは勝利して流れる君が代をどうしても聞きたいのだと書き、冷静に見守る新聞記者たちの間で、入賞の瞬間に絶叫した。理性を超えて、感情を爆発させるそれがあの大会だった。

完全復刻アサヒグラフ 東京オリンピック

週刊朝日編集部(朝日新聞出版)

オリンピックが終わり、大会の全体を振り返る多種多様な印刷物が発売された。本書のオリジナルもそのひとつで、今回は広告や写真や印刷の粗さもそのままに完全復刻している。ただ競技している選手を捉えるのではなく、ユニークな視点でまとめられているものが多いのが特徴。射撃の選手はまるで映画の俳優のようだったり、選手村で寛ぐふたりの男女はカップルのようにも見える。当時の日本人には珍しかった外国人選手たちひとりひとりが、感情を持った人間として描かれながら、尚且つ競技の迫力も十分に伝えてくれている。
そしておもしろいのは、オリンピックに合わせて作られたオリジナルの広告たち。広告とはわかりながらも、どれも写真の使い方がすばらしくコピーもいやらしくない。パイオニアは、号砲を正確かつ同時に選手たちに伝えるための音響装置を開発、導入した事実を伝えつつ、ページの3分の2はスタートラインに並ぶ選手たちの写真を使っている。聖火に初めて都市ガスを導入した東京ガスの広告は真ん中にドーンとまん丸のガスタンク。雪印バターは子どもたちの体格がよくなったということばから始め、郵便局の簡易保険の広告も積立金が建設費用として使われた高速道路の写真を3分の2ページも使っている。景気はいけいけドンドン、大成功のうちに終わったオリンピック報告という、企業にとって最高の媒体。こうした広告からも、潔さとこれから昇っていこうという日本の勢いが強く感じられる、いま見てこそ楽しい一冊かも知れない。

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幅 允孝(はばよしたか)

BACH(バッハ)代表。ブックディレクター。
国立新美術館ミュージアムショップのスーベニアフロムトーキョーやTSUTAYA TOKYO ROPPONGI、LOVELESSなどにおける本のディレクションや、d-labo(スルガ銀行ミッドタウン支店内)などのライブラリー・ディレクションを手掛ける。ほか、編集、執筆、ディストリビューション等、本周りのあらゆる分野で活動中。最近では、渋谷のSHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS、銀座のHANDS BOOKSがオープンしました。
BACH : http://www.bach-inc.com

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