いま、バンコクにいます。

竹田聡一郎コラム 日々是蹴球

カメラ/FinePix HS50EXR  提供/FUJIFILM

竹田聡一郎(たけだそういちろう)

Profile

第三百九試合

ユタカのボール

10歳くらいの時、藤沢市の高谷04というチームと県大会で対戦した。「T・A・K・A・Y・A・タカヤ、フォー!」というだっせえ円陣をカマして、けっこう強かったのを覚えている。
 
左のウイングには小柄だけどドリブルの鋭いヤツがいたのも覚えている。でもそれは正直、ドリブルを覚えているというより、他の要素が強かった。彼には左手の手首から先がなかった。「左手ないくせにドリブルうめえ左利き」そんな乱暴で非礼で不躾な認識だった。子どもとはいえ、ちょっとひどいなと反省している。
 
そのレフティとはジュニア・ユース年代でも対戦した。ユース、つまり高校時代は同じ地区、隣の私立高校のサッカー部に所属していたから、顔を会わす機会が増えた。でも、一度も口をきいたこともないし、挨拶すらしたことなかったと思う。相変わらず左サイドを陣地にして、僕のチームの右サイド(ウメと内田とテツ)が脆弱だったのもあったけど、タッチライン沿いで彼らをいつも蹂躙していた。厄介なヤツだった。その頃に相原豊という名前を知った気がする。
 
その名前を思い出したのは仕事を始めてからだ。ネットニュースをあさっていて「アジアでプレーする日本人」といった感じの記事を見つけた。なんでもタイからバングラディッシュに移動し、ウガンダに渡ったらしい? ウガンダ? 首都の名前さえ知らない。
 
それからずっと気になっていた。でも近年、便利とも安易ともいえるSNSが普及して、同級生の僕らは今年になってけっこう簡単につながった。
 
「相原さんを取材したいんですが、バンコクにうかがったらお時間いただけますか?」「同級生だし、戦友なんだから丁寧すぎる敬語は止めましょうよ」こんなやり取りがあった。サッカーやってきて良かった。
 
スクンビットのシュラスコ店で会った。初対面だけどお互いを知っている不思議な感覚だ。
 
僕はユタカを、タイでプロになるまでの経緯、バングラディッシュに流れた理由、ウガンダってどんな国、と質問攻めにして、ユタカは何度もすべらない話を展開してくれた。「ゆめのはなし」にも書いたけど、とても書ききれない。
 
海外移籍にはITC(国際移籍証明書)という書類が必要らしい。勉強になった。でもそんなの序の口で「バングラディッシュで契約したチームにもらってた年俸は10万タカ」「あぶない刑事?」「Tk.って書くんだ。1タカは100パイサ。1タカ2円くらいだったかな」とのこと。旅行好きとしては知らない国の通貨の話だけでしびれるのに、そこにサッカーが加わってくる。ネタの宝庫だった。
 
この日、僕がいちばん笑ったのはウガンダのクラブのことだ。「練習に行くと最初は日当が何シル(シルング。ウガンダの通貨らしい/表記はUsr/1Usr≒0.04円)か出てたんだけど、お決まりのパターンでだんだん出なくなって、文句を言ったら最終的に練習後にサトウキビが配られた。堅くて太いの。『お前は外人だから2本だ』と言われて、『2本!? やったぁ!』ってなるか!」
 
こういうのを代理人とかネットとかを介さずに異国でたったひとり、心身にストックできる人間のしなやかな強さに僕は憧れる。シュラスコ店に閉店まで居座り、店のサンミゲルを品切れにしてやった。
 
翌日はユタカサッカーアカデミーのひとつであるバンコクのろう学校の練習に連れていってもらった。「あいつら、障害者とかタイ人とか関係ない。話せなくてもガンガン寄ってくるから気をつけてね」とユタカは笑って忠告してくれたとおり、ちゃんと掌を合わせて挨拶した後はボール持って仕掛けてきたり、いきなりパスをくれたり、自由で挑戦的で愛嬌があって、ボールコントロールはまだまだのくせにみんな堂々とボールを追って何より楽しそうだ。
 
練習ったってユタカは技術指導なんてしない。戦術だって無視だ。とにかくゲーム。タイの手話を駆使してチーム分けをする。僕もユタカも入り、3チームで勝ち残りだ。
 
彼らの年齢は8~14歳らしいが、年齢も体格も上手い下手も関係なく本気でボールを追う。パスの優先順位はかなり下でドリブルが大好き。ユタカのアカデミーはどこもそうらしい。ユタカにボールが入ると一斉にハイプレスがかかる。このピッチでいちばんうまいユタカからボールを奪うのは大金星なんだろう。
 
でも、ユタカは細かいタッチとユーモアのあるトリックと少しのマリーシアも交えてひらりひらりと彼らをかわしてゆく。抜いたほうも抜かれたほうも本当に楽しそうだ。ろう学校のサッカーだから当たり前なんだけど、声のないピッチの中でもユタカが彼らの父のような兄のような存在なんだというのは十二分に伝わった。
 
とても素敵な関係だ、とか安易にいい話にしちゃうのは苦手だ。慕ってる子どもたちの前でユタカが元ライバルに赤っ恥をかかされるのを見せてやらあ、と僕もユタカのボールをけっこう激しく奪いに行くが、あっさりかわされる。みんな笑う。腹いせに至近距離から強いシュート打って決めてやった。子どもとか障害者とか関係ない。ここでは上手いヤツ、スコアしたヤツがいちばんなのだ。分かりやすくていい。
 
だんだんゲームは熱を帯びてくる。加減とか緩急とか減速とか、そんな言葉はここにはないみたいだ。全員フルパワーで戦う。大転倒も大回転も激突もある。とてもタフなゲームだ。
 
ユタカはタイ語の手話を駆使して楽しそうに彼らとコミュニケーションをとっている。僕はさっぱり分からないから、ユタカが命名した彼らのアダ名で「まつ毛、打て」「Vシネ、よこせ」とか指示や要求を出す。聞こえてないはずなのに、なぜか彼らはこっちを見てくれる。気のせいだろうか、不思議だ。
 
この日のベストプレー賞はGKをやっていたVシネに贈りたい。捨て身で相手の右サイドからの突破を阻んだところで、僕はカウンターを仕掛けるべく、逆サイドで雨乞いする蛙のようにぴょこぴょこ跳んでボールを求めた。でも、中央でピッコロ(あだ名)と橋田(あだ名)も同じようにVシネからのスローを待っていた。
 
Vシネはいろいろ見比べたけど、どこに出すか逡巡しながらなぜかどんどん前に出てきて、みんなが「早く」というジェスチャーで急かすから、さらに混乱を招き、ボールを持ったままエリアの外に出てきてしまった。思わず、「お前、エリア出ちゃってるじゃねーか」とつっこんだら、Vシネはいかにも恥ずかしそうにはにかんだ。僕もちぎれるほど笑った。
 
夜はまた飲みにいった。今夜は焼き鳥だ。またユタカとバカ話をする。25年ぶんの登場人物と、それぞれのストーリーは尽きない。サッポロビールもどんどん空になる。
 
ユタカは生まれつき、左手がない。でも、柔らかいタッチと深い懐と勝負強さと鋭い仕掛けを小さい頃に手に入れた。それをベースに誰の足跡もない異国に自分の足で立ちプロになった経験と、誰に注目されなくても必死で足掻いた実績と、やりたかったことを実現させるブレない信念が備わった。さらに、流暢なタイ語とその手話を学び、キャラ立ちのアカデミー生と、理解と支援をしてくれるスポンサーさんにも囲まれた。快活でユーモアのある可愛い奥さんとも出会い、春にはジュニアも生まれてくるそうだ。左手はなくても、ほとんどすべてのものを持っている。
 
僕らは初めて会話をした。飲んでバカ話をして、軽くハグ(ユタカは嫌そうだったけど)をして「またな」って別れるなんて、15年前、あるいは25年前の関係からはちょっと考えられない。独特の間合いでの仕掛けで、ブチ抜かれそうになってひっかけてにらみ合いになったのを僕は忘れてないし、ユタカはユタカで、彼の口から「高校時代、オレらにはマネージャーがいなかったから『西湘のタケダってキャプテンは偉そうにマネージャーと付き合ってるに違いない。削ろうぜ』とターゲットだった』と今回、聞いて、でもそれもなんだか嬉しいエピソードだった。決して良好な関係だったわけではない。時間が何かマイルドにしてくれた部分はあると思う。でも同じ時期にそれぞれの熱量を持ってサッカーをしていたという共通項があって、それが連帯感や戦友という言葉や旨い酒に熟成されたんだと信じている。
 
この年になって刺激を与えてくれて、嫉妬と尊敬を抱かせてくれる同い年の友人ができたことが嬉しい。Vシネたち、サッカーうまくなったかな。またすぐに、会いにゆきたいと思う。

閉じる

竹田聡一郎(たけだそういちろう)

1979年神奈川県生まれ。同い年の小野伸二にヒールで股抜きされたことを妙な自慢としながら、フリーランスのスポーツライターとして活動。戦術やシステムを度外視した「アンチフットボールジャーナリズム宣言」をして以来、執筆依頼が激減したのが近年の悩み。著書に蹴球麦酒偏愛清貧紀行『BBB』(ビーサン!! 15万円ぽっちワールドフットボール観戦旅/講談社文庫)と、このコラムを書籍化した『日々是蹴球』(講談社)がある。

ページの先頭へ