サッカーを愛して止まないあの人の ゆめのはなし

サッカー(フットボール)をモチーフにした小説『ファンタジスタ』で2003年野間文芸新人賞を受賞した小説家・星野智幸は、度々フットボールを作品に登場させてきた。星野は、サッカーが起こす奇跡を信じ、求め続けている。そして、サッカーに潜む熱狂と狂気とそれらをめぐる現代の状況を冷静に見つめ続けてもいる。

サッカーの熱狂を南米から知る

僕らの世代は野球世代なんですが、その輪から外れてしまったんです。そんな小学校5年生の時、新しく赴任してきた先生が、みんなにサッカーをさせようとして、それにまんまとはまってしまいました。「ダイヤモンドサッカー」の録画を、道徳の授業で見せられたりしましたからね(笑)。ですが、中学校にはサッカー部がなく、止むなく陸上競技をしていました。再びサッカー熱が復活するのが、大学時代86年のメキシコW杯です。もう異様な熱狂状態でした。開催地メキシコは、国全体が祝祭空間のようで、メキシコが勝ったときの街の様子をテレビで観ると、頭から血を流して歓喜の表情をしているわけですよ。“今日は死者が2人しかでませんでした”みたいなニュースが流れて、ただただすごいなと。そこで、ラテンアメリカとサッカーが一緒にインプットされました。そして、留学していたメキシコで観戦した94年W杯、コロンビアがオウンゴールで負けたアメリカ戦で、オウンゴールした選手の射殺も含め、サッカーが人生であり、とてつもない悲劇をもたらすものでもあるということを知りました。

86年のW杯では、ラテン文化特有の死と陶酔が渾然一体となったトリップ感のようなカタルシスを覚え、94年には、サッカーが、ラテン文化のなかで極限の狂気と幸福のほかに、不条理までをもたらすということをまざまざと感じさせられました。たかがサッカーだけれども、自分が応援している試合は、自分の人生をかけなきゃいけないんだと気を引き締めました。

小説としてのサッカー

サッカーの醍醐味は、他人とのやりとりだと思うんです。言葉じゃなくて、ボールと体と空間を通したコミュニケーション。フィールドのどこでどんな出会いが生じて、やりとりをすることになるのか、ピッチ上にある無限の可能性のなかで次々とプレーしていくわけですよね。独りよがりでは絶対にできない。それが僕のサッカー観の根幹にあって、小説『ファンタジスタ』ではそうしたコミュニケーションのあり方としてサッカーを描きました。ただし、最終的に目指しているサッカー小説は、単に物語の素材としてサッカーを扱ったものではなく、サッカー感触そのものの再現です。自分がサッカーを見ているときに感じる奇跡感と陶酔感、それ自体を小説として活字で再現したい。そうした奇跡は、ハプニングとしてではなく、選手の力によって、信じがたい瞬間として出現します。時空間が切り取られて、過去や未来と関係なく現在そのものが際立って存在していることへのとてつもない喜びがそこにはあるんです。僕はサッカーに、そういう奇跡を求めています。ただ、それをどう書いたらいいのか、まだわかっていない(笑)。『ファンタジスタ』は、そのような意味でのサッカー小説とは少し違います。サッカーが生む熱狂の至福と危うさを書こうとした作品です。サッカーの熱狂は非日常的なその瞬間だけの喜びとして浸るべきなのですが、そのカタルシスを日常でも求めるようになると、例えば政治のような別の熱へすり替えられてしまいかねない。サッカーファンとして、誰かがそういう「不純な」目的でサッカーを流用することには耐えられないですからね。

メンタリティがまずは必要

日本代表の未来については、オシム監督に賭けていました。オシムが日本のサッカーをもう一段、別次元へ引き上げてくれるだろうと。僕が見ている限りでは、うまくいっていると思っていました。今、日本人監督は僕の中ではありえない。日本人監督は戦術で勝てる人はいるとは思うのだけれど、今必要なのはメンタリティの変化なんですね。スポーツのもつ孤独と厳しさを、海外に行かずとも選手に身につけさせられるかどうかが日本サッカーの課題。それゆえにまだまだ外国人監督である必要があると思うんです。

星野智幸 プロフィール

星野智幸(ホシノトモユキ)

星野智幸プロフィール

1965年アメリカ・ロサンゼルス生れ。早稲田大学第一文学部卒業後、2年半の新聞記者勤めを経て、2年間メキシコへ留学。1997年『最後の吐息』で文藝賞、2000年『目覚めよと人魚は歌う』で三島由紀夫賞、2003年『ファンタジスタ』で野間文芸新人賞を受賞。著書に『水族』(1月刊行)『無間道(むげんどう)』『ロンリー・ハーツ・キラー』などがある。

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