サッカーを愛して止まないあの人の ゆめのはなし

天皇杯の思い出

天皇杯はトーナメントで日本一を元日に決めるということで特別な大会でしたね。当時のJFAなどのリーグ戦はTV中継もなく日程も根付いていなかった。でも、天皇杯の決勝は1月1日ということで、子供の頃から毎年見ていた記憶があります。実は選手としての天皇杯のデビューは東海大学時代なんです。その頃の東海大学はJFAのチームを天皇杯で倒すというのを目標にしていたところがありました。確か対戦相手は日産。当時の日産には木村和司さんがいて、まさに黄金時代。手も足も出なかった印象しかありませんが、そんなチームと戦える嬉しさはありましたね。大学卒業後JFLでプレーしていた頃は、加茂監督だったこともあり、”絶対天皇杯とってやる”という意気込みで臨んでいました。普段は行かない地方に行くということで違った独特の緊張感もありましたよね。また、思いがけない選手がまだ地方でプレーしていたりするのを知るのも楽しかったです。

天皇杯の面白さ、難しさ

プロになって、挑戦を受ける立場になってからは、やっぱり難しい試合が多かったです。Jリーグ同士と戦うのはいいのですが、特に社会人チームや、学生チームが対戦相手だとやりにくいですね。こっちは勝って当たり前、相手は失うものがないから、それこそ足がつるくらいの必死さでくる。普段のJリーグ同士の戦いだと、危なければ簡単にクリアーするような場面でも、「お前らそこで蹴りだすの?」「そんな必死なクリアーしちゃうの?」って感じでなかなかできない。当然激しく当たりにもいきづらい。そういう慣れないプレーを続けて行くうちにリズムが悪くなってゲームが難しくなってしまう。「学生相手にマジになんなよー!」なんてヤジも飛んできたりするし(笑)。Jリーグ以外のチームとは、やっぱりやりにくいですよ。

横浜フリューゲルス最後の年の天皇杯

98年の秋から冬にかけての、あの騒動の中で戦って行くのは難しかったです。メディアも初戦から凄い人数が詰めかけてきていました。トーナメントなので負けたら大会終了、そしてチームも終わるという状況だったから、終わりを撮りにきているというのは分かっていました。まぁ、「誰が撮らせるか」とは思っていましたけどね。でも、意識してないつもりでも固かった。特に初戦と2戦目はサッカーも固かったかな。2戦目からはJリーグとの対戦予定でしたが、当時まだJFLの甲府がセレッソ大阪に勝って上がってきた。「やりにくいな」と思いましたよ。でも、そこを抜けると、大会に集中できるようになった。最初はメディアも煩いなと思っていましたが、気にならなくなった。負けたくないというよりも勝ち上がるんだ、優勝するんだという気持ちの方が強かった。ちょうど初戦が福岡で西からどんどん勝ち上がって国立を目指すような日程でしたしね。「最後は国立行くんだ!」とサポーターと一緒に盛り上がって行きましたね。決勝当日は元旦らしい良い天気でした。試合開始前は、決勝独特の緊張感はありましたが、特に最後の試合という意識はなく、決勝を戦い、勝って優勝しようという気持ちで臨みました。優勝した瞬間は嬉しかったですね。これで終わりという悲しさというのはなく、喜びの方が多かったです。薩川(了洋)が泣きながら抱きついてきたんで少し悲しくなりましたけどね(笑)。

夢について

子供の頃はダイヤモンドサッカーを見ていたこともあり、サッカー選手になるというのが夢でした。当然、当時の日本にはJリーグはなかったですから、海外でプロのサッカー選手になりたいと思っていました。その当時の自分達にとっては、ワールドカップもほんとうに夢でしたね。日本が予選に参加しているかどうかすらも分かってなかったですから、目標というより、まさに夢の話でした。今後の夢ということで言えば、指導者として活躍したいですね。選手としてトーナメント形式の天皇杯はとりましたが、リーグ戦で優勝した経験がないので、指導者としてまずはリーグをとりたい。そして、いつかは日本代表の監督として、またワールドカップの舞台に立ちたいですね。

山口素弘 プロフィール

山口素弘(ヤマグチモトヒロ)

山口素弘プロフィール

元日本代表。日本のワールドカップ初出場となった98年フランスワールドカップメンバー。Jリーガーとしては、横浜フリューゲルス、名古屋グランパス、アルビレックス新潟、横浜FCでプレー。全クラブでキャプテンを努める。2007年現役を引退。天皇杯では3度の優勝を経験。特に1998年横浜フリューゲルス最後の年となった優勝での表彰式でカップを掲げる姿は多くの人に感動を与えた。
オフィシャルブログ「M.Pivote」 http://motohiro.aspota.jp/

ページの先頭へ