サッカーを愛して止まないあの人の ゆめのはなし

セクシャリティをテーマとした作品を作り続ける写真家、鷹野隆大。彼は、野球少年だった子供から、サッカーを通して外部の視点を得て、本当の意味での大人になったという。視ることのスペシャリストは、サッカーを観ることにおいて、どんなことを思うのだろうか。

地球で生きる方法としてのサッカー

子供の頃は野球少年で、未だまともにサッカーをしたことはありません。そんな僕がサッカーに興味を持ったのは、約20年前、学生時代に旅をした時でした。モロッコとアルジェリアの国境付近で1人バスを待っていた時、何時間も来ないことに不安になり、仕舞には「もしここで誘拐されたらどうしよう。どうやってコミュニケーションをとればいいんだ」と考え始めました。そこで思い当たったのが、旅の途中、あらゆるところで見かけたサッカーでした。路地裏や公園で子供たちが丸い何かを熱く蹴り合っている。そこに国を超えたコミュニケーションの可能性を感じ、サッカーについて語れるようになれば、不測の事態に巻き込まれても生き延びるチャンスが生まれるのではと思ったんです。

観るサッカーとして/男のルックス

ゴールにつながるラストパス。「来た!」という興奮。その瞬間を求めて繰り返し試合を見るのですが、最近衝撃を受けたのは、2005-06のチャンピオンズリーグの準決勝、ヴィジャレアル対アーセナルでのリケルメのプレーです。

試合中、彼にボールが渡ると、それまでの勢いやスピードがガクッと落ちて、あっという間にディフェンダーに囲まれてしまうんです。最初は何で彼にボールを持たせるのかイライラしたんですが、よーく見ていると、チャンスは彼がボールを持った次の瞬間から生まれているんですね。のろのろしたプレーでチャンスを生み出す彼には本当に驚きました。スピードと走ることが求められる現代サッカーにおいて、とても稀有な存在だと思います。他に選手ではチェルシーのジョン・テリー、監督ではモウリーニョが好きです。どちらもルックスからなんですが(笑)。

考えるサッカーとして/マリーシアの政治学

サッカーからは本当にいろんなことを教えられました。例えば、「マリーシア=ずる賢いプレー」。汚いプレーをしても、勝てば賞賛されるのがサッカー。わざと蹴ったり、過剰に痛がったりという掛け引きを当然のようにするのを見て、野球少年だった僕は価値観の違いに戸惑いました。野球ではそういうプレーを認めませんから。しかし考えてみると、米軍基地のある国でしか野球はポピュラーではありません。とすれば、野球の行動原理はアメリカという一地域のものであって世界の標準ではないわけです。それに気付いた時、「じゃあ、世界の人々の行動原理はどんなものなのだろう。サッカーにその答えがあるのでは?」、そう考えて見続けている自分がいました。こうして、サッカーを通じて僕はアメリカ的価値観から外に出ることができたんです。マリーシアが標準であるような多様な世界の存在を知ったとき、日本の戦後や国際政治が急にクリアになって、「ああ大人になったな」と思いましたね(笑)。

写真とサッカーがリンクする

試合中、選手同士の濃密なコミュニケーションが常に要求されるサッカー。

しかもその関係の中で自分の個性を発揮することが求められます。今、日本代表が頭打ちなのは、その能力に欠けているからだと思います。規律は守れるけれど、関係を保ちながら自己主張することが苦手なんですね。もし、こういう日本の土壌から新しいサッカーが生まれてくるとしたら、それは僕がこれから表現していく上でヒントになるのではと期待しているんです。ひとを撮る僕の写真もひとりでは成立しません。「瞬時のコミュニケーション能力」や「相手を生かしながら自分も生かす」というのは、サッカー同様、写真にとっても大事な要素ですから。あと、僕のモデルになる若い男の子(みなさんプロではなく普通の人です)には子供の頃サッカーをしていた人が多く、野球をやっていたという人は最近までいませんでした。この辺りにもサッカーと写真の特別な関係を感じています。

鷹野隆大 プロフィール

鷹野隆大(タカノリュウダイ)

鷹野隆大プロフィール

写真家。1963年福井市生まれ、1987年早稲田大学政治経済学部卒。1994年より作品を発表。2006年 写真集『IN MY ROOM』(蒼穹舎)にて第31回木村伊兵衛写真賞受賞。セクシュアリティをテーマに美意識のあり方や他者との関係性を問う作品を発表している。他の写真集に『鷹野隆大 1993-1996』(蒼穹舎)。

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