サッカーを愛して止まないあの人の ゆめのはなし

演劇界きってのサッカーフリークであり、草サッカーチーム「FC AARDVVARK」のプレイング・マネージャーである演出家で脚本家の鈴木勝秀。自分にとって演劇とサッカーは同じだとさえ語る鈴木が明かす、サッカー論的演劇論。もしくは、演劇論的サッカー論。

演劇にもサッカーにも求めるのは、自由と責任

サッカーを始めたのは小学校。メキシコ五輪人気にあやかってできた弱いチームで、本腰入れてのめり込んだのは中学から。結構強くて、僕が入った年から3年連続で神奈川県で優勝したんです。当時は、ダイヤモンドサッカーとかサッカー雑誌を読んで情報収集するんですが、結局、中継がなくて試合を見ることができないまま、試合結果や選手についての情報だけは入ってくる。僕のサッカーは、文字情報だけから想像をふくらませていって、でき上がっていったんです。だから、自分にとってサッカーは想像するものというのが根本にあります。高校ではベスト4止まりだったけど、やはりサッカーは生活の中心でした。それが大学に入って、何故か演劇に変わってしまうんですよ(笑)。とはいえ、僕の中でサッカーと演劇の在り様は全く同じだったんです。だから、サッカーから演劇にスライドしたことも、実はほとんど違和感がない。演出法とサッカー観もすごく似ていて、僕が選手や役者に求めるものは、どちらも"個人事業主であれ"という考え方。自分のことは自分で責任を取るということです。自由を与えられるということは自己責任を取るということと表裏なので、自己責任が取れない人間には自由も与えられません。レベルの達していない役者/選手は、言われた通りに動かなければチームとして機能しなくなってしまう。自然、お願いや指示が多くなる。

でも、そうすると強制されているという感覚や制約が出てしまい、その人の喜びが、言われたことができた喜びでしかなくなってしまう。権威や他人の力によってしか自分の達成感を感じることができなくなってしまう人は、表現行為やサッカーの創造的プレーとは遠いところにいると思う。自由が欲しければ、それにふさわしいだけレベルを上げる必要があります。僕はいまフリーなので、作品ごとにカンパニーが違います。だから、役者さんやスタッフが一番自分の得意なことを発揮できる場を作ることが、戯曲の解釈や意味を求めるよりも重要になる。戯曲がサッカーでいう戦術だとしたら、それができる役者さんが集まらないとだめだし、できる役者さんがいたら、僕は彼らが自由にできるような環境を用意して、その戯曲/戦術を超えるものに方向づける。戦術とか監督の指示に縛られて、自分の考えや動きにストップをかけて後ろ向きなことをやっていると、前の日本代表のようにいつまでもシュートを打たなくなってしまう(笑)。今の日本代表は、そこが変わって攻撃的になれたのがよかったんだと思います。

カテナチオという未知の響きとスタイル

サッカーは、勝つこと、強いことが全てはないですが、やはり結果はないといけない。プロの選手は誰もが勝つためにやっていると思うし、自分も小さい頃からやってきて、良いサッカーをするためじゃなく、勝つためにやってきましたからね。ディンフェンスの強いイタリアサッカーが好きになったのも、そこからきています。当時、サッカー雑誌を読んでいたら、イタリアには"カテナチオ"というスタイルがある、と。映像で見る機会がないから、"ゴールに鍵をかけてしまう"とか"カンヌキをかけてしまう"って表現されるプレーって、一体どんなだって。それで子供の頃からカテナチオという言葉にものすごく惹かれていましたね。それで何かの機会にイタリア代表の試合を観たら、インテルのマッツォーラという選手が、終始動きまわってゲームを作っている。今だと、スタンコビッチっぽい。それが自分にはすごい印象的で、そこから僕のインテリスタの道は始まりました。

人生をかけた壮大な物語としてのサッカー

ゴール前の攻防や点を獲ることよりも、DFのシュートブロックとか、いかにコーナーに逃げさせたかとか、そういうことにすごく燃えるんです。シュートブロックは、特に興奮しますね。去年のモウリーニョが指揮したインテルのディフェンスは本当に素晴らしかった。彼の戦術は基本ディフェンスだと思うのですが、何よりあのエトーに守らせたということがすごい。演出家と共通するモウリーニョのすごさは、選手/役者が本来やりたくないことを喜んでやるようにさせる力です。メインじゃない場面でしっかりやれることが芝居でもサッカーでも重要。芝居を見慣れない人は台詞を喋る人、サッカーだとボールがあるところをどうしても見てしまいます。そうではなく演劇は空間、時間全体が演劇で、劇場内で起こる様々なことをしっかり見れると、すごく大きな物語が浮かび上がってくる。小説とかに比べたら、演劇で描けるストーリーは本当に簡単なことしかない。映画に比べても限られた時間と空間しかできない。だけど何がおもしろいかというと、観客は自分の物語を作ることができるんですね。サッカーも同じで、勝ち負けが基本にあるんだけど、そこで何が起こっているかを細かく見ていくと多様な物語がある。その物語はある特定のチームを応援するようになることで一本化され、1年間の物語になり、10年間の物語になって壮大な歴史になっていく。昨シーズン、インテルがチャンピオンズリーグで優勝したのが45年ぶりですから、50代のインテリスタにとってみたら、その優勝の喜びたるや人生そのものなわけです。生きててよかったってくらい。

ヨーロッパ、サッカーの地元を巡って

日本には、スポーツとしてのサッカーは根づいているんですが、サッカーとは何ぞやとなると絶対的に根付いてなくて、この2月、ヨーロッパのいろいろなスタジアムに行ってみてわかったのは、現実のサッカーは生活者のものなんですね。

僕はインテルの試合をスカパーですべて見る。でも、実際サン・シーロに行って試合を観ると、そこには生活者としてのインテリスタたちがいて、東京でいくらインテリスタだと言ってみてもダメで、僕が真のインテリスタになるためには、向こうで暮らさなきゃいけない(笑)。スタジアムでサポーターは基本的に個人で好き勝手に声を出しているんですが、個々の声がまとまるある瞬間があって、それがすごく美しい。原始宗教のような、祝祭というか、競技場にある神聖な何かを感じてしまうくらい。スタジアムは生活者が日頃のストレスを吐き出せて、次の日からまた頑張ろうとなる場所でもあるんですね。
そういう風に日本の演劇もなればいいなと思います。もっと生活者の日常に入り込んで、サッカーファンとかフェスに行く人たちがもうちょっと芝居を観に来てくれたら、そんなに違わないことがわかるはずなんです。少なくとも僕は違わないものとして作っているつもりです。

芝居としてのサッカー

そう遠くない未来に、サッカーに関する芝居をやろうと考えています。演劇でサッカーを表現するのは大変難しいんですけど、ある人に焦点を当てるとすごいドラマを持っている人がたくさんいる。そういう人をモチーフにしてやることは可能だと思うし、やりたいと思っています。

鈴木勝秀が選んだベスト11

2010年モウリーニョ指揮下のインテル

昨年、2010年のモウリーニョ監督の元でのインテルが自分の中でベストイレブン。夢のようなチームでした。今回選んでいませんが、長友に期待しているのは左サイドだけじゃなくて、サネッティのようにどこでもやれるユーティリティプレーヤーになってほしい。この前のゴール後も、他の選手にも愛されてるように見えたし、信頼されている感じがあってよかった。

鈴木勝秀 プロフィール

鈴木勝秀(スズキカツヒデ)

鈴木勝秀プロフィール

演出家・劇作家。1959 年生まれ。早稲田大学在学中から演劇活動を開始し、87年に『ZAZOUS THEATER』を旗揚げ。主宰者として構成・演出を務める。現在はフリーで活動し、演劇作品から映画、テレビ番組まで幅広いシーンで脚本・構成・演出を手がける。近年の演出作に『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(07/08/09年)、『フロスト/ニクソン』(09年)、『クローサー』(10年)、
『ファントム』(08/10年) など。草サッカーチーム、FC AARDVARKの監督でもある。

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