サッカーを愛して止まないあの人の ゆめのはなし

様々な年代の代表で監督やコーチを歴任し、2004年のアテネオリンピックでは日本代表監督も務めた山本昌邦。日本サッカー急成長の時代に、これほど継続的にチームの中枢として関わり続けた人間は他にいない。常に現場から日本のサッカーを見続けてきた男が語る自分と日本サッカーのこれまでとこれから。

サッカー王国静岡という土壌

サッカー王国静岡の出身ですから、周りには普通にサッカーがあったのが始める理由としては大きかったと思います。僕らの時代はサッカー少年団がすごく積極的にやられていた時でもありましたから、皆サッカーをやっていて、自分もやろうかみたいな感じでした。もう一つ始めた理由があるとすれば、僕が小学校に上がる前にあった東京オリンピックの聖火ランナーが国道一号線を走ったんですね。うちの母親が連れて行ってくれて、沿道の盛り上がりを見たら「やっぱり凄いなオリンピック」と思ったんです。そこでスポーツへの憧れみたいなものが生まれて、静岡はサッカーがあったので、スポーツ少年団に入りました。それがきっかけでしたが、小学校の卒業文集には、日本リーグに入って日本代表になり、オリンピックで日本を優勝させると書いていました。今考えれば大きい夢をしかも具体的に書いたもんですよね。日本代表になるのは当たり前ぐらいのノリで書いていますからね(笑)。

実力を見据え、そこから努力する

子どもの頃からサッカー選手になるのが夢でした。高校時代はキャプテンで、監督に用があって早く帰るからと後を任された時も、監督が帰った後のほうがきつかったと皆に嫌がられた(笑)。自分は上手くなりたいし、もっと必死にやらなきゃだめだと思っていたから疲れなんてなかったんだけど、他の人にしたら「何本やるんだ」みたいな感じだったんでしょうね。それでも中高と大会に出てると、現実的に自分たちの実力もわかってくるんですよね。自分の夢がすごく高いところにあったんだなと気づくんですけど、いま国士舘大学理事長の大沢先生が当時サッカー部の部長をやられていて、高校1年の頃から何度か大学の練習に呼んでくれていました。そういう縁があって、大沢先生の推薦で日本ユースの選考合宿にも参加させてもらったんです。周りは有名な人ばっかりでしたが、そのとき監督だった松本育夫さんに選んでいただいて、テヘランでの第1回ワールドユースのアジア予選に代表として臨みました。そのときは親孝行できたと思いましたね。ほんとに厳しい練習をしたけど、こんなチャンスないと思っていたから必死で頑張りました。大変だけど楽しんでいる部分もあった。 

指導という相矛盾すること

これまで選手としても、コーチとしてもいろいろな指導者と共に過ごしてきて、本当にたくさんのことを学ばせてもらいました。僕自身は今に到るまで選手に何かを教えたということはありません。教えた程度で勝てるんだったらこんな楽な仕事はない。当然指導者だから色んなことは知っていなきゃいけないし、すべてを把握しておかなくてはいけませんが、結局やるのは選手であって自分ではないんですね。一流選手と呼ばれる選手がどういう選手なのかの特徴もわかってきました。最後の最後は努力する才能がない人はだめですね。言われたことを「はい」と言ってやってる程度では無理で、強い意志やコツコツ努力する才能がないと無理なんです。一流選手は皆努力の天才なんですよ。最後の最後で諦めないメンタルの強さが絶対に必要になってくる。
ただ、そういうメンタルの強さは練習では鍛えられません。たくさんの失敗をしてたくさんの悔しい思いをして、それがエネルギーになる。どんなに上手くても1回で挫けたり、もういやだと思ったらそれで終わり。そういう意味でも人を育てるというのは夢があることです。難しいのは、チームで勝つことと人を育てるってことは相矛盾するようなことだということなんです。チームが勝つためにある役割だけをやってもらうという指導もありますが、では個の良さを潰して「こうやっとけ!」といって勝つことに何の意味があるのかということなんです。将来日本代表になるかもしれない12歳の子に、大人のサッカーみたいな勝利至上主義を説くのか、子どものうちにしておかなきゃならない技術を磨かせるべきなのか。人を育てるときに、どちらに軸足を置くべきという答えはない。でも、答えがないからこそ楽しい仕事だとも思うんです。
 

世界が変わる瞬間に立ち会えたよろこび

若手選手育成からワールドカップまで、日本サッカーの歴史が変わる様々な瞬間に立ち会わせてもらってきました。U-20の世界大会で初めてアジア予選を突破したときは、もう泣きまくりました。そのすぐあと、オリンピック出場をかけたサウジアラビア戦で28年ぶりの出場を決めたときも、W杯で初めて勝った瞬間に選手と一緒にいられたこともそうです。その日は脱力感で何も考えられません。そういう達成感は忘れられない。本当に皆が一体になって、嬉し涙を流す瞬間なんてほとんどないですよ。それは歴史が変わるような瞬間にしかない。流してきた涙の数だけ日本のサッカーが成長してきた時代に、選手と一緒にいられたというのは凄い至福のことで、それが今でも財産になっています。でも、最後の1秒までどうなるかわからないのがサッカー。そこでの力が問われるスポーツでもあります。だからドーハの悲劇みたいなことも起きる。最後の5秒でW杯にいけなかった。4年間背負ってきたものをそこで全部失ってしまった、残り5秒のたった1点で。本当に日本中が涙した日だったと思います。あの時、サッカー関係者は何日も立ち上がれないぐらいのダメージだったでしょうね。私もあの試合が終わったあと監督室に呼ばれて、「山本5秒だぞ5秒。5秒で世界が消えたんだ」って、オフトがその5秒をものすごく悔しがっていました。大きな試合では選手は普通のことが普通にできなくなる。寝たくても寝られない。緊張や興奮、プレッシャー、責任の重さもあると思います。そういうものに潰されていく選手もいるし、逆にアピールしようと奮起する選手もいる。今の子たちは大体が後者の方向になってきていると思います。誰しも失敗をして成長をします。かつてのマラドーナもサッカーだけじゃなく人間として成長したから、86年のW杯で82年の雪辱を果たし、チームを優勝まで引っ張れたと思うんです。そのためにも失敗や試合に負けるということも必要なことなんです。ずっと勝って成功するなんて人はいませんから。皆悔しい思いをしてきています。W杯に行くのが当たり前の今。それは先人たちのおかげなんですよ。

日本代表の夢

いずれ日本が世界チャンピオンになってほしいと思っています。僕が生きているうちに。監督とかコーチではなくて、優勝となるといち日本人として観ているしかないでしょうね。ただ祈っていると思う。勝ってくれって。そんな簡単に優勝できないけれど、自分がそこに関わっていたいということよりも、自分が生きているうちにこの目でW杯優勝の瞬間を観たいという純粋な願いです。14年のブラジルに18年のロシア。その次はカタールと、2022年までもう開催場所は決まっています。そこのどこかで日本が優勝してほしい。前回まででベスト16までは経験しているから、今度の決勝トーナメントでは「ここからだぜ」って言えると思うんです。「ここからだぜ、まだ満足すんな」って。そういう歴史が一つずつ積み上がっていく瞬間を楽しみにしています。

山本昌邦が選んだベスト11

歴史を変えたベスト11

僕は日本のサッカーの歴史が変わったのは、初めて世界に出ていったU-19のアジア選手権メンバーだと思っています。初めてFIFAオフィシャルの大会でアジアを勝ち抜いたチーム。そこから中田英寿を中心に、次々と歴史を塗り変えていきました。世界に出られるようになったという意味で扉を開いた彼らは、技術や戦術よりも“歴史を動かした男たち”としてベスト11だと思います。

山本昌邦 プロフィール

山本昌邦(ヤマモト マサクニ)

山本昌邦プロフィール

現役時代はディフェンダーとして、ユース・ユニバーシアード・日本の各代表として活躍。その後は指導者の道へ進み、コーチ・監督として多くの日本代表選手を指導。世界の舞台で活躍する選手の育成に大きく貢献。2004年のアテネ五輪では、日本代表監督を務めた。現在は、サッカー解説者として活躍。

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