サッカーを愛して止まないあの人の ゆめのはなし

テクニカルなプレーで日産の黄金期を支え、日本代表としても活躍。引退後は、テレビやラジオのコメンテーターとしてメディアの世界へ。06年にはJクラブの監督になれるS級ライセンスを取得した。「エリートではないんだよ」水沼貴史は、まだ夢を追いかけている。

「途中で帰されたんだよ、俺だけ」

過去に戻れるとしたら、85年かな。メキシコワールドカップ予選の韓国と対戦した最後の試合。初戦に1-2で負けて、2戦目は0-1で負けて、ワールドカップには行けなかった。あの日のことは忘れたことはないし、日本のサッカーの歴史が変わる日になるはずだった。力は韓国の方が上だったけれど、チームのなかにはワールドカップに行きたいという気持ちであふれていたし、もう一度試合をしてみたいね。実は、1試合目に先発で出場したんだけど、全然良くなくてね。相手を分析していくなかで、自分の対面にくる左サイドバックの選手のことを考えて対策を練っていたら、違う選手が出てきた。その選手のことをなかなか抜けなくてね。2戦目で絶対に挽回しようと気合を入れていたんだけど、なんとメンバーから外されて。森(孝慈監督)さんをどれだけ恨んだことか。「必ず挽回したのに」(笑)。ただ、国を背負って戦うということは、そういう世界であることも教えられて、すごく今となっては感謝をしていますね。ウィキペディアで「水沼貴史」って検索すると、エリートのサッカー選手のように見えるけど、それは全然違うよ(笑)。79年の、初めて世界と戦うことになったワールドユースという大会でも、ずっと代表のチームで合宿を続けていたんだけど、途中で帰されたんだよ、俺だけ。当時は、普段から不満や不平ばかり言うタイプだったから周囲に迷惑がかかっていたのかな。返されたときは、合宿がすごくきつかったから、解放される喜びがあったんだけど、世界と戦えるチャンスをつかめずに、「あ、俺ここで終わるんだ」っていう気持ちがどんどん出てきて…。当時の監督の松本育夫さんは、「そういうふうにしないと(水沼は)変わらない」という思いで、帰したんだと思う。そこには愛情もあったと思う。それで自分は変わることができた。「ダメだ、やらなきゃって」だから、とても感謝しています。

指導者としての再挑戦

現役を引退した後は、TBSの「スーパーサッカー」という番組で、コメンテーターとしてテレビに出るようになったんだけど、世の中にもっとJリーグを知ってもらいたいと思って、メディアの仕事を始めたんだよね。その仕事を10年間やらせてもらったんだけど、ふと、「日本代表のサッカー選手として活躍したい」という小さい頃の目標を思い出して…。現役選手のときは、86年のメキシコW杯の予選ではあと一歩のところで敗れて、88年のソウル五輪の予選は中国に敗れてかなわなかった。夢をかなえる直前までは行くことができたんだけど、どうしてもあと一歩届かなかった。そこで、この叶えられなかった夢をかなえるためには「指導者になって監督になって、自分のチームを持つことができれば…」と思って、監督に必要な資格を取りに行って、コーチを経験して、プロの監督になるチャンスがめぐってきた。でも、厳しい世界で継続してやらせてもらえなかった。その後は母校の法政大サッカー部の監督もやらせてもらうことになったんだけど、これも1年しかやらせてもらえなかった。かつて常勝チームと言われたころの強さを取り戻したくて、長期的に考えてチームを作りたかったんだけど、少し厳しすぎたのかな。いつしか選手との考えにギャップが出てきて、成績が出なかった。考えも甘かったのかもしれないね。

日本のサッカーを強くしたい

今はJリーグの試合の解説をしたり、東日本大震災以降はいろいろと考えることが多くなって、サッカー以外のいろいろな世界の人と会って話を聞いたりして、人間関係を広くしているところ。就職活動中だから、時間はあります(苦笑)。それと、法政大では「スポーツ戦術・戦略論」という授業を週に1回行っているんだけど、現場に対する思いも捨てられなくてね。究極の夢は自分が監督をしているチームに息子の宏太(今季からJ1の鳥栖でプレー)がいることかな。ただ、トップチームの監督でなくてもいい。育成のなかで良い選手を育てていくことも、チームを強くすることには変わりはないし、日本のサッカーを強くしたいという思いにブレはない。それはずっと思っていたい。よく、解説を聞いてくれる人から「辛口ですね」と言われるけども、辛口と思われてもそれを伝えることが仕事だと思っているので。このチームは、この選手は、これだけの能力があるわけだし、「もっとできるんじゃないの?」ということを伝えないといけないし、Jリーグは今年で記念すべき20周年を迎えているんだけど、Jリーグ自体がもっと魅力的になっていかないといけないなと思っているから。まだまだこれからいろんなことにトライしていきたいね。

水沼貴史が選んだベスト11

過酷な練習を耐えた11人

ベストイレブンは、『よく耐え抜いたベストイレブン』で決めよう。FIFA主催の大会では日本で初開催となった、1979年FIFAワールドユース選手権のメンバーから選出。開催国として出場することが決まっていたから、長期にわたり強化したんだけど、今では考えられないようなスケジュールで行われていたんだよね。あの過酷なトレーニングを耐え抜いた(笑)、精鋭たちを集めて18人を選定したいな。え?11人じゃないとダメなの?でも、この18人はだれも外せないよ。ちゃんと載せておいてね。監督は、俺じゃないよ。松本育夫さんにするしかないでしょう。

水沼貴史 プロフィール

水沼貴史(ミズヌマ タカシ)

水沼貴史プロフィール

1960年、埼玉県出身。本太中、浦和市立南高では全国制覇を経験。法政大に進学し、総理大臣杯2回制覇。79年にはユース代表としてワールドユースに出場。83年に日産自動車サッカー部に入部。センスのあるドリブルや技術の高いプレーで、ウイングや攻撃的MFとして活躍。金田喜稔、木村和司らとともに日産の黄金時代を築き、95年で現役を退く。国際マッチ、32試合出場7得点。引退後はテレビ、ラジオなどで活躍。04年にS級ライセンスを取得。06年、横浜F・マリノスのトップコーチに就任。06年8月、成績不振で辞任した岡田武史元日本代表監督の後任として監督に就任。法政大サッカー部の監督を経て、現在に至る。

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