サッカーを愛して止まないあの人の ゆめのはなし

この人の言葉を聞いていると元気が出てくる、そんな人は多いのではないだろうか。現役時代、ジェフ市原(現・千葉)で活躍した宮澤ミシェルさんは、解説業に留まらず、教育の現場でも精力的な活動を展開中だ。子どもや若者に熱いメッセージを送り続けるミシェルさんが、フランス人の父を持った幼少期、Jリーグ草創期の熱狂、そしてこれからの夢を語り尽くした。

ピアノ一直線のはずがサッカーへ

父がフランス人の音楽家なんです。幼稚園のころ、オヤジに何したいんだ? と尋ねられて何気なくピアノって答えました。オヤジがアコーディオン奏者で身近に音楽があったから、なんとなくピアノでもやるかって。それからです、地獄の日々が始まったのは。幼稚園や小学校低学年のころはピアノ漬け。学校から帰ったら4時間、延々とピアノを弾かされる。オヤジは厳しくて、ちょっと間違えただけで指ガツンですよ。そんなオヤジのスパルタ教育が嫌で嫌で、近所のピアノ教室に行くことにしました。でもね、オヤジはピアノ教室にもついてきたんです。僕が間違えると先生が指摘する前に、雷を落とすんです。これには先生も困って、家でお父さんに習えば? なんていわれました。
父とは一緒にステージに立ったこともあります。あれは小1のころ、父の演奏旅行について行くと、ホテルのビアガーデンで「アイスクリームあげるから、パパと演奏してよ」とお願いされたんです。小さな子どもが出てくると、それだけで盛り上がりますからね。仕方なく父のアコーディオンに合わせてピアノを弾いたんですが、帰りにボロクソにけなされ、二度とピアノなんて弾くものかと思いました。あそこで褒められていたら、音楽家の道を進んでいたかもしれない。
サッカーは小3のころから本格的に始めました。通っていた小学校はサッカーが強くて、地区大会は地元のテレビ局で放送される。そんなテレビで見ていた憧れの先輩と一緒にやるサッカーは、もう面白くて面白くて、あっという間にのめり込みました。フランス人の父は僕がサッカーを始めたことに大喜びで、いつも試合を見に来ました。気がつけばピアノはフェイドアウト。ちびっ子ピアニストからサッカー小僧になっていました。

DFに転向してJリーグに「たどり着く」

自分で言うのも何だけど、サッカーでは学生時代から注目されていました。高校卒業時には実業団7社から誘われ、国士舘大学を卒業するときもいくつか誘いがありました。
高校時代に一度、読売クラブ(現・東京ヴェルディ)の練習に参加したんですが、あれは強烈な体験でした。最初の二日間はキーパーしかさせてくれない。ミニゲームがあっても、ラモスさんが下手くそはキーパーやっとけって、フィールドに入れてくれないんです。さすがに可哀そうだと周りのブラジル人が言い出して、3日目にチャンスが巡ってきました。もう死に物狂いで松木さんや都並さんに勝負を挑んで、確かな手応えをつかんだんです。
僕は30歳という年齢でJリーガーになったんですが、つくづく運が良かったと思う。子どものころから攻撃のポジションをやってきたのに、大学時代のある日、急に最終ラインの真ん中をやれといわれたんです。フォワード一本で勝負すると腹を括っていたので、あれにはがっくりきた。でも、僕は元々怪我も多かったから、フォワードを続けていたらJリーグが始まる前に引退していたと思う。ディフェンダーに転向したから、Jリーグの舞台にたどり着けたと思うんです。
Jリーグが始まったころ、30歳の僕の身体はボロボロになっていました。当時は週2試合は当たり前、しかも延長Vゴール方式だったので、きつくてきつくてたまらなかった。でもいろんな人々の助けがあって満員のお客さんの前でプレーできる、そう思ったら、感謝の気持ちしか出てこない。1試合でも長くプロを続けたいと思って、あらゆる努力をしました。鍼がいいと聞けば鍼を打ちに行き、気功がいいと聞けば気功をやる。時効だからいいますが、ライセンスのない、いわゆる闇医者に診てもらって、懸命に身体の手入れをしていました。あのころのベテランは、みんなそれくらいのことはやってましたよ。

サッカーだから学べることがある

Jリーグでは3年間プレーしました。最後の一年は、氷嚢が友達というほど身体はガタガタ。一日でも長くやりたかったけど、もう引退するしかなかった。でも未練を残してスパイクを脱いだから、しばらくセカンドキャリアのことは考えられなかったですね。解説を始めたときも、放送ブースで「俺もまだ活躍できるのに」なんて悶々としていて、正直みっともなかった。でも、そのうち解説の仕事が面白いと思えるようになってきました。サッカーの現場にいられるというのが、とても幸せだと思えるようになったんです。
いまは企業に呼ばれて自分の体験を語ったり、地元の青少年の教育に携わったりと、仕事の幅は広がっています。特に、子どもたちの教育には力を入れていきたいですね。携帯電話の普及もあってか、いまは人付き合いの苦手な子どもが少なくない。そんな時代だからこそ、スポーツの重要度は増していると思うんです。知り合いに塾の経営者がいて、彼は僕に「サッカーやってどうなるんですか?」なんていいます。でも、そこは僕も負けません。「サッカーだから学べるものがあるんです」と言い返すんです。挨拶はもちろん、仲間を大事にする心、努力することの楽しさ。サッカーをすることで、僕は人生にとって大事なたくさんのことを学びました。それを今度は自分が子どもたちに与えられたら、そう強く思うんです。

宮澤ミシェルが選んだベスト11

一緒にピッチに立った外国人ベストイレブン

僕の現役時代、Jリーグにはワールドクラスの外国人がたくさんいました。その中からベストイレブンを選びました。物凄く豪華なチーム、こんなチームでプレーできたら、最高に幸せだろうね。

監督
ベンゲル(名古屋)監督はこの人で決まり。同じフランスの血が流れていますからね。

GK
シジマール(清水)リーチが恐ろしく長くて、攻められても絶対に引かない強さがあったね。

右SB
ジョルジーニョ(鹿島)国立で初めて目の当たりにした、彼のクロスは矢のようだった。「世界が来た」って思ったよ。

右CB
ブッフバルト(浦和)存在感が凄かった。1対1の勝負なんて、とにかく迫力があってね。

左CB
宮澤ミシェル(市原=現千葉)市原の同僚バシリエビッチも素晴らしかったけど、ここは僕にプレーさせてもらいたいね。

左SB
レオナルド(鹿島)94年アメリカW杯で見たときは、凄いのが出てきたと思ったよ。テクニックは一流、しかも運動量もある。そんなワールドクラスが日本に来たんだから。

ボランチ
ドゥンガ(磐田)キャプテンシーの塊。同じピッチに立っていると、とにかくうるさかった。ミスが少なくて、パスが正確だったことも印象深いね。

右MF
リトバルスキー(市原=現千葉)小さな巨人。ダブルタッチの達人で、凄い角度ですり抜けていくんだ。

トップ下
マスロバル(市原=現千葉・福岡)ロングパスとフリーキックの名手。練習でよくフリーキックを競ったけど、なかなか勝てなかったな。本番では一本も蹴らせてもらえなかったよ。

左MF
ストイコビッチ(名古屋)気まぐれなエンターテイナー。プレーの一つひとつがオリジナリティにあふれているんだよね。

右FW
ラモン・ディアス(横浜M)初めて股抜きでシュートを決められた。あのシュートは忘れられないね。

左FW
スキラッチ(磐田)瞬間的なスピードが凄い。ふっと目を離したら、その場から消えているんだ。

宮澤ミシェル プロフィール

宮澤ミシェル(ミヤザワ ミシェル)

宮澤ミシェルプロフィール

サッカー解説者。1963年生まれ、千葉県出身。国士舘大を卒業後、フジタ工業(現・湘南ベルマーレ)を経て、92年から東日本JR古河(現・ジェフ千葉)へ。展開力のあるCBとしてJリーグ3年間で58試合に出場し、2得点を決めた。現在はサッカー解説者としてJリーグはもとより、W杯やユーロなどを精力的に取材。また講演会やサッカー教室を通じて、青少年の育成にも携わっている。

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