サッカーを愛して止まないあの人の ゆめのはなし

皆さんはアフリカのサッカーに、どんな印象を抱いていますか。個性あふれるプレイヤーと、呆れるほど情熱的なファンたち。アフリカでは日本人の想像を遙かに超える、熱狂のゲームが繰り広げられています。来日22年目を迎えるガーナ出身の農工学者アジマンさんは、アフリカサッカーを隅から隅まで知り尽くしたエキスパート。彼の言葉に耳を傾ければ、あなたもアフリカサッカーのことがもっともっと好きになること間違いなし!

いまも癒えない敗北の心の傷

アフリカ人にとって、サッカーは何より大事なスポーツ。「遊ぼう」といったら、それはサッカーすることを意味します。ボールがないときは、その辺に転がっているオレンジを蹴ったりして。それがガーナであり、アフリカなんです。
ぼくの祖国ガーナは昔からサッカーが強くて、大陸王者を決めるアフリカ・ネーションズカップで4度も優勝しています。これはカメルーンと並ぶ2位タイの記録。3度目の優勝を飾った1978年大会は自国開催だったこともあり、強烈に記憶に刻まれました。国中が信じられないような騒ぎになって、決勝でウガンダを破った夜は、みんな朝まで踊り狂っていました。お祭り騒ぎは翌日、月曜日になっても続き、国の機能が完全に麻痺。これはどうにもならないということで、大統領が国民の祝日にすることを宣言しました。こういうのはアフリカではよくあること。もう怖いくらい盛り上がるんです。
ぼくたちアフリカ人は勝つと有頂天になり、負けると信じられないほど落ち込みます。アフリカ初のワールドカップとなった2010年南アフリカ大会、ガーナはアフリカ勢で唯一、決勝トーナメントに勝ち進みました。ガーナ人として、これほど誇らしいことはなかった。でも、悲劇的な結末が待っていました。ウルグアイとの準々決勝、延長戦のタイムアップ寸前にガーナはPKを決めて追いつきます。奇跡的な同点劇に「これは行ける!」とぼくらは狂喜乱舞しました。でもPK戦では、目立ちたがり屋のアサモア・ジャンが外して負けてしまった。あのときはもうショックでショックで……。あれからしばらく、ぼくはサッカーはもちろん、すべてのスポーツから遠ざかりました。テレビでスポーツをやっていたらチャンネルを変える。新聞もスポーツ欄は見ない。友人に会ってもスポーツのことは話題にしない。スポーツに触れた瞬間、あの忌まわしい敗北が甦ってきて、大げさではなく心が痛くなってしまうんです。いまでもウルグアイ戦の傷は癒えていません。それは多分ぼくだけじゃない、すべてのガーナ人が、あの敗北から立ち直っていないと思います。それくらいガーナ人、いや、アフリカ人にとってサッカーは大切なんです。

身体が宙に浮いたままスタジアムに入場?

情熱が迸るあまり、アフリカでは日本では考えられないような事件が起こります。90年代のこと、ガーナ2部リーグの最終節で首位のチームと最下位のチームが対決しました。首位チームは勝てば昇格決定、一方の最下位チームも勝てないと降格決定。これぞ「絶対に負けられない試合」、ピッチの周りには黒山の人だかりができていました。試合は0対0で進み、終了間際、首位チームのストライカーが決定的なチャンスを迎えます。ドリブルでキーパーをかわし、無人のゴールへシュート。勝負あったと思った瞬間、信じられない出来事が起こりました。最下位チームのファンがピッチに乱入し、ボールをゴール寸前でクリアしたんです。この瞬間、興奮した群衆がピッチになだれ込んできて大混乱になりました。この騒乱の最中、警官が素早く審判を安全なところへと連れ出しました。あそこにいたら、審判は命の危険にさらされていたでしょう。
ガーナにはアシャンティ・コトコとハーツ・オブ・オークという二大クラブがあり、ダービーになると国中が恐ろしく加熱します。試合前日にはチケットを買った人も買えなかった人もスタジアムに行き、徹夜をするという伝統があります。スタジアムが開門すると、それはもう大変な騒ぎ。殺気立ったファンが門に殺到して、東京の朝のラッシュを上回る人口密度のままスタンドに向かうのです。信じられないかもしれませんが、身体の小さな人は足が宙に浮いたままスタンドまで行ける、それくらい強烈な圧力です。慣れない人は危険ですね。ですからアフリカのスタジアムには、女性や子どもはあまりいません。
チケットを買えなかったファンですか? 彼らももちろんスタジアムに入場します。というのも門にいる係員に小銭を渡せば、あっさり通してもらえるんです。ですからガーナでは、2万人のスタジアムに3万人が詰めかけるということはザラ。人が多すぎるので、何かあると怖いですね。

研修生たちが驚いたスポーツの力

ぼくが日本に来たのは1990年、Jリーグはまだ生まれる前でした。寝ても覚めてもサッカーという国から来たので、「この国にはサッカーがないの?」と思って悲しくなりました。あのころはテレビをつけると野球ばかり。ボールを投げて、木の棒で打つ。日本人はどうしてこんな奇妙なスポーツに熱狂しているんだろうって、不思議でならなかった。ですから93年にJリーグが始まったときは、ほんとうに嬉しかったですね。よく名古屋グランパスの試合に通ったものです。
Jリーグはレベルが高く、安全な、素晴らしいリーグです。こんなに整備されたリーグは、世界中探してもないでしょう。でも、ひとつ要望があります。いま外国人選手のほとんどがブラジル人ですが、もっといろんな国の選手を観られたらって思うんです。たくさんのブラジル人選手が日本に来たことで、ブラジルは日本人にとって親しみやすい国になりました。そのことを考えると、いろんな国の選手がいたほうが、多くのスタイルを楽しめるし、いろんな国への理解も深まると思うからです。この前、大学の教え子を連れてガーナに研修に行ったとき、教え子たちが感激したことがありました。現地人から「どこから来たの?」と訊かれて「ジャパン」と答えるたびに、「オー、シンジカガワの国か!」と歓迎されたのです。マンチェスター・ユナイテッドはガーナでも大人気なので、香川選手を通してみんなが日本に親近感を抱いているんです。これがあるだけで、滞在中の苦労もずいぶん減る。仕事もはかどる。教え子たちは「スポーツの力って凄いんですね」と目を丸くしていました。
世界におけるアフリカの重要性は日に日に増してきていますが、日本ではアフリカのことがあまり報道されません。これは残念なことです。スポーツはこうしたことを乗り越える力を秘めています。例えばガーナ代表選手がJリーグで活躍し、インタビューでガーナやアフリカの問題について語る。そういうところから、何かが始まるかもしれません。日本のファンがアフリカを少し知るだけでも、それは物凄く価値のあることだと思います。

オンウォナアジマン スィアウが選んだベスト11

アフリカの力を示した伝説の男たち

ベストイレブンは、アフリカのレジェンドたちで構成しました。アフリカというと土地柄、攻撃にタレントが集中しますが、ツートップはミラとウェア、このふたり以外ありえません。彼らはヨーロッパと南米ばかりが幅をきかせていた90年代、衝撃的なプレーで世界の目をアフリカに引きつけました。あの功績にはアフリカのだれもが感謝しています。あえなくドログバは外れてしまいましたが、ミラとウェアなら彼も納得するしかないでしょう。この個性あふれる面々を束ねるのは、日本でもお馴染みのトルシエ監督。コートジボアールやブルキナファソで実績を残した彼は、アフリカ有数の指導者として高く評価されています。

オンウォナアジマン スィアウ プロフィール

オンウォナアジマン スィアウ(オンウォナアジマン スィアウ)

オンウォナアジマン スィアウプロフィール

東京農工大学准教授。ガーナ出身。1989年、国立クマシ科学技術大学工学部農業工学科を卒業し、翌年、留学生として来日。名古屋大学大学院農学研究科に在籍し、95年に博士課程を修了。岐阜大学応用生物科学部助教授を経て現職に。アフリカの乾燥地帯拡大を食い止めるべく「バイオマスボード」の研究、開発、普及に取り組む。少年時代の夢、プロサッカー選手は怪我により断念したが、アフリカサッカーへの造詣の深さでは右に出る者がいない。趣味はバドミントン。サッカーで養ったヘディングを使うなど、意外性あふれるプレーを身上とする。

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