サッカーを愛して止まないあの人の ゆめのはなし

サッカー解説の第一人者であるセルジオ越後さんは今年、ブラジルから来日して40年目を迎えた。サッカー後進国の日本がワールドカップの常連になったのも、全国津々浦々を回ってサッカーの普及に取り組んできた、この人のお陰といっても過言ではない。日本サッカー界の恩人が、自らの歩んだ道、そして祖国ブラジルでのワールドカップへの思いを存分に語る。

初のワールドカップは栄光のスウェーデン大会

記憶に残る初めてのワールドカップは、13歳のときに観た1958年スウェーデン大会だね。若きペレ、ガリンシャが大活躍して、ブラジルが初優勝した歴史的な大会だ。でも正確には「観た」わけじゃない。というのも当時はテレビが普及していなかったからね。
試合の日は、サンパウロ中心地の大聖堂に大勢の群衆が集まるんだ。そこには巨大なスピーカーと無数の電球が並べられた長方形の板が置かれていてね、実況の言葉に合わせて、電球の光が縦横に動く。どんな風にボールが動いているか、それを見て理解するんだ。面白いでしょ? 実況も臨場感たっぷりで、例えばこれが東京の人に聞かせるのなら、「いまブラジルは国立競技場でいえば、代々木門に向かって攻めています!」そんな風にわかりやすく喋ってくれる。それを聴いて、ぼくらも「そうかそうか」と興奮するんだ。ゴールが決まると、あちこちで派手に花火が上がるから、街中のどこにいても「あ、ゴールが決まった!」ってみんなわかったね。
テレビがない当時、最高の娯楽は映画だった。お小遣いをもらって映画館に行くと、映画の合間に貴重なニュース映像が流れるんだ。そこではワールドカップの映像も出てきて、そこでぼくらは初めてペレのゴールなんかを目の当たりにした。1週間も経っているのに、館内は生で試合を見ているような盛り上がり。一度しか味わえないブラジルの初優勝、あれを体験できたのはラッキーだったね。

ブラジルは、いつでもどこでもだれとでも

ブラジルでは無数にサッカーチームがあって、子どもから大人まで切磋琢磨を繰り返している。その中からプロが生まれるわけだけど、選手の出世の過程は日本とはずいぶん違う。日本では○○高校の○○選手という具合に、選手はひとつのチームでしかプレーしない。でもブラジル人は、いろんなチームでプレーするんだ。地元で評判のサッカー小僧はあちこちから助っ人に呼ばれて、どんどん腕を磨いていく。そうやってプロへの階段を駆け上がる。
このぼくもそうだった。どこかのチームと試合をして活躍すると、すぐ「来週、どこどこと試合をするから来てよ」って声をかけられる。上手い子は多くのチームから誘われるから、条件も良くなっていくんだ。「いや、土曜日の3時はもう先約があって……」と断ろうとすると、「じゃあ交通費持つから」とか、「晩飯を食べてってもいいし」とか、「お小遣いも上げるよ」なんて条件がどんどん良くなっていく。振り返れば、とにかくいろんなチームでいろんな選手とプレーしたんだよね。
日本のように決まったチームで同じ仲間とプレーしていると、プレーの幅が限られてしまう。控え選手はチャンスがなくて、ずっと球拾いや声出しばかり。固定化した日本式に比べると、オープンなブラジル式にはたくさんの可能性がある。いろんなチームでプレーすると、いろんなポジションや戦術を身につけられて、こっちでフィットできなくても、別のチームで才能を見出されるということもある。いつでもどこでもだれとでも―。才能を無駄にしないという意味で、ブラジル式は素晴らしいシステムだと思うよ。

ペレ擁する最強サントスに誘われる

コリンチャンスに所属していたユース時代、夏休みを利用して隣町のサントスに遊びに行ったときのこと、サントスの友人宅で過ごしていると試合に誘われたんだ。サントスに遠征に来た日系人チームにね。携帯もパソコンもない時代のこと、それでもブラジルは口コミが凄いから、「セルジオがサントスにいるらしい。それなら呼ぼう」となったらしい。試合後、嘘みたいな出来事が起きた。近所にいたサントスの二軍監督がちょうど試合を見ていて、ぼくをスカウトしに来たんだ。あのペレを擁する、当時の世界最強軍団から声をかけられたんだよ!
「でもぼく、コリンチャンスと契約しているので……」と正直に断ろうとすると、二軍監督はこう言った。「それは知ってる。サントスから誘われたと言ったら、向こうも絶対にキミを手放さないだろう。だから、“親の仕事の都合でサントスに行くことになりました”と自分で断りを入れて、こっちに来なさい。しばらく秘密で練習に来なさい。車代も出すから」。大人は上手いこと考えるなあと思って言われた通りコリンチャンスに申し出たら、クラブの人は笑っていた。「お前がサントスの練習にも顔を出してるのは知ってるよ」だって。ブラジルのメディアは抜け目ないから、すべて筒抜けだったんだ。
そんなわけでペレのチームメイトになる夢は叶わなかったんだけど、サントスの練習に参加したのはいい思い出だ。サントスはペレを筆頭にセレソンが顔を揃えるスーパースター軍団。鬼回しで鬼をやると、全然ボールに触れない。信じられないくらいパスが回って、ノーチャンスなんだ。「あ、これが世界一のチームなんだな」って実感したね。だってコリンチャンスの鬼回しは、鬼になっても結構ボールを奪えたんだから。

日本初のサッカープロ

日本に来て、もう40年になる。この40年間、ぼくがやったことをひと言でいえば「普及」ということになる。サッカーの種まきをして、その芽を育てることに全精力を注いだんだ。1978年から本格的にサッカー教室を始めて、それこそ北は北海道から南は沖縄まで列島をくまなく巡回した。教室では戦術や技術は二の次、とにかくボールで遊んだ。サッカーがマイナーだった当時、とにかくこのスポーツの楽しさを知ってもらわないと始まらないからね。
当時のぼくは「日本初のサッカープロ」という自負があった。サッカー教室を成功させて、日本でサッカーが盛んにならなければ、ぼくはメシを食べていくことができない。学校の先生や企業の人にも手伝ってもらったけど、彼らと違ってぼくはサッカーだけが生活の糧だったんだ。「サッカーがこの国に根づかなかったら、ぼくはメシを食うことができない」、そう覚悟していたから、精神は完全にサッカーのプロだよね?
50万人以上の子どもたちと遊んで、その中からJリーガーになった子も多い。プロにならなくても、サッカーが大好きになって試合を観に行くようになった子は、山のようにいる。みんなでサッカーを盛り上げたおかげで、Jリーグも20年目を迎えた。オフサイドも知らなかった不毛の国が、いまやアジア有数の強豪になった。ヨーロッパでプレーする日本人も増えている。この国のサッカーの発展に尽力できたのは、ぼくの誇りだ。祖国ブラジルで開催される次のワールドカップで日本代表が大活躍したら、これほど嬉しいことはないね。
最後にひとつ。ブラジルという国には、世界一ワールドカップで優勝しただけの素晴らしい文化が根づいている。ワールドカップを観に行く記者やファンのみんなには、試合の勝ち負けだけじゃなくて、温かくも厳しくサッカーを育てているブラジルという国のありようもしっかりと見てきてほしい。それはきっと、日本サッカー界の財産にもなるはずだから。

セルジオ越後が選んだベスト11

日本代表を背負った偉大な男たち

選考において重視したのは安定感とインパクト。日本代表を長く背負い続け、大舞台で強烈な存在感を示したプレイヤーを選んだ。人材難で選考に苦しんだポジションもあるけど、どう? なかなか個性的な顔ぶれになったでしょ。惜しくも選外になった選手には、山口素弘、小野伸二、田中マルクス闘莉王などがいる。監督には迷わずトルシエを選んだ。だってワールドユースで準優勝、オリンピックで準々決勝進出、ワールドカップで16強と多くのカテゴリーで結果を出したから。彼はつねに論争を巻き起こし、日本サッカー界を活気づけた。メディアをずいぶん得させたはずだよ。このあたりもプロフェッショナルとして大事な要素だよね。

セルジオ越後 プロフィール

セルジオ越後(セルジオ エチゴ)

セルジオ越後プロフィール

1945年7月28日生まれ。ブラジル、サンパウロ出身の日系二世。ブラジルきっての名門コリンチャンスで活躍し、1972年に来日。藤和不動産(湘南ベルマーレの前身)の一員として、日本リーグ1部で活躍した。引退後の1978年からサッカーの普及に専念。全国津々浦々を巡り、指導した子どもの数は50万人に上る。現在は解説業はもちろん、アイスホッケーチーム「日光アイスバックス」のシニアディレクターとしても精力的に活動中。『日本サッカーと「世界基準」』(祥伝社)、『セルジオ越後のフットサル入門』(講談社)など著書多数。

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