サッカーを愛して止まないあの人の ゆめのはなし

人生、何が転機になるかわからない。宮崎さんにとって、それは1990年のイタリアW杯。若きロベルト・バッジョの美しいゴールを目の当たりにした瞬間、バッジョとカルチョ(イタリアサッカー)の魅力に取り憑かれてしまったのだ。98年、思い切ってフィレンツェに移住し、精力的なフィールドワークを開始。本場の貴重な情報を日本に発信し続けている。15年にも及ぶ地道な作業、彼はその先に壮大な夢を見据えている。

イタリア語の教科書は「ガゼッタ」紙

イタリアに渡ったのは、バッジョを追いかけるためでした。ときは98年フランスW杯直前、彼が代表チームに招集されるか否かで、イタリア中が大騒ぎになっていたんです。その有り様を、この目で見たいと思ったんですね。
でも、言葉がわからなければ話にならない。ですから着いてしばらくは、ひたすらイタリア語を勉強しました。バッジョの動向は日々報道されていて、まずテレビでそれを見て、次にラジオでそれを聞き、翌日の新聞でそれを読む。そんな作業をひたすら繰り返しました。特に「ガゼッタ」紙は毎日、必死に読み込みましたね。あのピンク色のスポーツ紙が、ぼくにとってはイタリア語の教科書だったんです。

6年間、バッジョだけを追い続ける

イタリアでの最初の6年、ぼくは他のゲームには目もくれず、ひたすらバッジョの試合を追いかけました。ホームもアウェーもフィレンツェから鈍行列車でスタジアムに通い、試合が昼なら日帰り、夜なら安宿に泊まってとイタリア中を旅しました。当時はリラの時代で物価が安く、ぼくも駆け出しライターの身、時間ならいくらでもありました。
バッジョの思い出は無数にあります。インテルを解雇された彼が、人知れず故郷のグラウンドで個人練習に励むのを見に行ったときには、即席キーパーをやることになりました。バッジョが「右の角」とか「左下」とか宣言してフリーキックを蹴るんです。もちろん、一本も止められない。だって、えげつないほど曲がるんですから。「バーを越えるかな」と思ったら、いきなりドーンと落ちてきたり。いいものを見せてもらいました。
いちばんの思い出は04年の秋、彼の故郷で同級生や旧友が「お疲れさまパーティ」を開いたときのことですね。ぼくも呼んでいただき、近所の人々が料理を持ち寄って盛り上がりました。大好物のシャンパンで上機嫌になったバッジョは真夜中、日付けが変わるころ「ちょっと蹴るか」と言い出しました。ドリブルやリフティングでひとしきり沸かせて、いよいよメインイベント。何度かキックの感触を確かめたあと、彼はペナルティエリアのライン上にボールを7つ並べて「見てろよ」と言うんです。それからどうしたと思います? 右手にタバコ、左手にシャンパングラスを持ったまま目を閉じてボールを蹴り、クロスバー7連発ですよ。全部、バーに当てたんです。あれは鳥肌が立ったなあ。
バッジョ一色だったぼくの生活は、彼が引退したことで変わり始めました。信じられないくらい上手いバッジョという選手を、監督たちはなぜ冷遇したのか。当初、ぼくはまったく理解できませんでした。ところが監督たちを取材するようになって、彼らの哲学や信念を知り、サッカー的イデオロギーが180度変わっていったんです。そのころからですね、ますますサッカーが面白くなっていったのは。

サッカー談義がイタリアの強み?

浮き沈みはありますが、イタリアは一世紀近く世界の強豪であり続けています。この国はなぜサッカーが強いのか。その秘密はもしかすると、サッカーを語るところにあるのかもしれません。マンチーニやカペッロといった他国の文化を知る指導者は、「イタリアほどサッカーを語る国はない」と断言します。「イングランドは日曜日が終わると、物語はスタジアムで一度完結する。でもイタリア人は、週末が終わっても延々とサッカーを語り続けるんだ」、そんなふうに言うんです。
確かに、そうかもしれません。週末はスタジアムで憂さを晴らし、その晩もテレビやラジオで尽きることなくサッカー談義が延々と続く。それは月曜日になっても途切れることがありません。朝、近所のバールに行くと、大袈裟ではなくサッカーの話題しかないんです。ぼくの地元フィレンツェでは、憎きユベントスが負けようものなら朝からシャンパンで乾杯。オフはオフで今度は移籍。年がら年中、サッカー談義に明け暮れるんです。
フィレンツェにはスタジアム正面に「バール・マリーザ」というバールがあって、そこでは毎日、朝から晩までお年寄りたちがおらがチーム、フィオレンティーナのことばかり話しています。「フィオレンティーナを知りたければ、バール・マリーザに行け」なんて言葉もあるほど。店は観戦歴50年、60年という「生き字引たち」の熱気で溢れ返っています。
フィレンツェのバール・マリーザに相当するもの店は、イタリア中に存在していて、そこでは日夜、サッカー談義が飽きることなく繰り広げられています。つまり皆さんがこの記事を読んでいる間も、イタリアの至るところで老若男女がサッカーを語り続けているということ。ちょっと凄いと思いませんか? マンチーニやカペッロが言うように、この終わりなきサッカー談義にイタリアの強さの秘密が隠されているのかもしれません。

敵国に潜入したスパイの気分で

イタリアに渡って15年、最初はバッジョのことばかり考えていましたが、この国のサッカーを取材するようになって、将来の夢がはっきりと見えてきました。それは日本代表がW杯で優勝すること。そのお手伝いを少しでもできたら本望だと思うようになったんです。
夢が定まってから、ぼくは自分のことをスパイだと思うようになりました。サッカー先進国に潜り込み、この国のトップシークレットをこっそり日本に発信する。語学の習得、試合の観戦、人脈の構築、戦術の理解。これらすべてが、やがて日本の世界制覇につながる……そう本気で信じて取り組むようになったんです。可能性は十分あります。日本に帰国してJリーグや高校サッカーを観るたびに、ぼくは日本人の上手さに舌を巻いています。技術ではイタリア人に負けていない、これだけは自信をもって断言できます。
W杯の決勝で、日本がイタリアを下して世界一に輝く。スコアは1対0、決勝点はカウンターから。これがぼくの夢、その日が来るまでスパイ活動は続くのです。

宮崎隆司が選んだベスト11

宮崎隆司が選んだベスト11

伝説のアズーリ
偉大な選手が多すぎて、ゾフもシレアもデル・ピエロもトッティも泣く泣く外す羽目になりました。この層の厚さがイタリアの底力を物語っています。

宮崎隆司 プロフィール

宮崎隆司(ミヤザキ タカシ)

宮崎隆司プロフィール

1969年、熊本県生まれ。90年イタリアW杯のバッジョに衝撃を受け、98年にフィレンツェに移住。2004年の現役引退までバッジョの全試合を現場取材した。ライフワークは育成現場の取材。そこで得たアイデアや経験を日本サッカー界に還元すべく、イタリア各地のサッカー場に通い続けている。『Number』、『サッカー批評』などに精力的に執筆。09年に共著『図解 イタリアの練習』(東邦出版)を、10年に『世界が指摘する岡田ジャパンの決定的戦術ミス』(コスミック出版)を著わした。

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