サッカーを愛して止まないあの人の ゆめのはなし

2013年の9月、本邦初のサッカー関連書だけの書評集『夢想するサッカー狂の書斎』を上梓した佐山一郎。80年代からスポーツ・ライティングを始め、元インタビュー/カルチャー誌の編集長であったバックボーンを活かしたひねりのある観察眼で、読者を挑発し、納得させてきた。愛するがゆえの苦言が耳に痛いサッカーラヴァー歴50年の重み──。

スポーツ本だけの書評本を書いて

あとがきでも書きましたが、サッカーだけの書評本は初めてみたいですね。とは言っても、サッカーに限らずスポーツ関連書籍は音楽や映画のジャンルと比べたら、まだまだレベルが低いことは確か。有名選手や監督の本ならそこそこ売れるんです。でもまだ、うぬぼれてる場合じゃないんですよ。功労者たちをも含めて、自分たちが思っているほど日本のサッカーに文化的な力はないのだということに気づいてほしい。そしてサッカー界なるものが、メディアを含めたより恊働的ものであることにも。

…とエラそうなこと言いながらも、43年越し10回のチャレンジを経て、W杯に5回連続出られるところまで来たこともまた事実なんです。「やっとここまで来たんだから、サッカーの出版物も、もう一度ここから気合入れ直しましょう」と、その書評集で、もう少し強調すればよかったのかなとも思っています。そんな矢先に『週刊サッカーマガジン』月刊化のお知らせが入りました。しかも、宮本恒靖元日本代表キャプテンが特別編集長就任とかで、前編集長のプライドはズタズタに。で、今までずっとつまらない原稿書いてきた人たちが、最終回ならではの思い入れたっぷりの原稿を書くんですよ。失礼ながら、戦力外通告を受けたあなたがたは危機感を持って毎回ちゃんと全力出して書いていたんですか、どうもそうは思えないゾってことになる。これはもう、明らかに天に唾するような話なんですけどね(笑)。

サッカーに宿る下克上/敗者復活の精神

1964年の東京五輪の時に小学校6年生だったんです。で、サッカーの切符が大量に余ったことから、国立競技場のハンガリー対モロッコ戦に担任の先生が連れて行ってくれることになったんです。試合はベネというハンガリーの超有名選手がひとりで6点、ダブルハットトリックをしたんですが、試合内容はほとんど覚えていません。モロッコの原色のユニフォームがきれいだなとか、メインスタンドのモザイク壁画(相撲の神様・野見宿禰=のみのすくねとギリシャ神話の女神・ニケ)をハワイのフラダンスの女の人に違いないと誤解したりで(笑)。座った場所は今でもよく覚えているんですけどね。

初めてプロスポーツを観たのは、小学校3年生の時で、当時ファンだった東映フライヤーズの試合でした。2013年に相次いで亡くなられた尾崎行雄さんという豪速球ピッチャーや土橋正幸さんがいらしてね。あとは「喝だーッ!」でおなじみのスラッガーの張本勲さんが目当てでした。監督の水原茂さんの家も近所にありました。お洒落な方でね、すれ違ったあと振り返ると、靴の底までピッカピカ(笑)。小学校低学年のときはサッカーではなく、大人の人と一緒に草野球をやっていたんです。ところが、足は遅いわ、懸垂もろくにできないわで、とにかくパワー不足。当時は、4番サードの子がほぼ間違いなくスポーツ万能。早くもスポーツならではの残酷な側面に気づいていました。「もう、絶対プロにはなれないな」と小学生だてらに努力の空しさ確信していましたから(笑)。

で、そう思っていた矢先にサッカーをやってみたら、力をあまり必要としないボレーキックが意外とうまくできて、野球からの敗者復活戦的な感じでサッカーの楽しさにめざめてしまったんです。中学にサッカー部がなくて自分たちで創部することになるんですけど、何となくみんな落ちこぼれっぽいんですよ。ある時、バスケットボール部とサッカーの試合をしたら、自分だけ当時としては珍しいアディダスの舶来サッカーシューズをはいてるのに見事に負けちゃってね、それはそれでかなりのショックでした。

そこから先がまた悲惨で、公式戦、練習試合合わせて20連敗! チームワークもよくないチームだったんだけど、3年生の時にサイドキックを教えた1年生が、僕らが中学を卒業したあと、たしか東京都大会で2度準優勝するんです。そのことでサッカーに下克上や敗者復活がつきものなのを身を持って知りました。ちなみに72年の夏に優勝した世田谷区内の中学のキャプテンが、今のサッカー協会副会長の田嶋幸三氏だったんです。

高校1年生だった1968年は、日本代表がメキシコ五輪で銅メダル。グングン盛り上がって行くのかと思いきや、冬の時代が延々続いて、次第に試合を観に行く気がしなくなっていくというお決まりのコースでした。「打ち捨てられた魂に見つける厳しい美しさ」みたいな敗北の美学にめざめるいっぽうで、サッカー界の情報過疎化が進んでいきました。

先日、サッカージャーナリストの宇都宮徹壱さんが、彼の有料メルマガ『徹マガ』の取材で来てくれたんですが、「サッカー関連書の書評をやるのは、かつての情報飢餓体験があるからで、戦中戦後に飢えた体験のある子どもが長じたのちに、めちゃくちゃ食べものにこだわるみたいな話ですよ」と答えました。
 

村松友視や山口瞳のようなスポーツ・ライティングをめざして

最初にスポーツ関連の原稿を書いたのは、雑誌『宝島』の植草甚一追悼号でした。80年だったから26歳だったのかな。原宿の竹下通りを歩いていたら、昔の東映フライヤーズのユニフォームが雑巾並の金額で売っていたという怒りに燃える感傷的ノンフィクションでした。84年にフリーになって、自由に動けるようになりました。サッカーの原稿は、その年9月の『Number』107が最初かな。「さよなら そしてありがとう 〝蹴る巨人〟釜本邦茂 ●日本サッカーよ 再び熱くなれ!」と銘打った引退特集の号で2本ほど書きました。創刊して4年が経っていたにもかかわらず、サッカー選手によるカバーストーリーは初めて。でも、最少の刷り部数だったらしいです。

サッカーの原稿は今もそうですけど、みんな「この業界をなんとかしよう」「盛んにしよう」という啓蒙、普及の言説で通底しているんです。僕もまたそのハニートラップに完全に引っかかってしまいました。書き始めた当初はどう書いていいのか分からなくて、こんなのでいいのかな、違う書き方があるんじゃないかと悩みました。そういう時はお師匠を求めるわけで、僕は同い年の後藤健生の書き方が世界のスタンダードとすぐ気づきました。新聞の運動部記者の原稿ももちろん簡潔で上手だと思うんですが、どれもが方程式に流し込むような書き方なんですよね。それよりUKのファンジン「When Saturday Comes」のような、記者じゃない普通の人が熱烈ファンとして記事を書く媒体の方がおもしろい。UKなら、どこにでもいるサポーターのおっさんでも意外と渋いことを言うんです。僕もそういうプロもアマもない波打ち際の立場でいたいんです。村松友視さんが昔、『私、プロレスの味方です』を中央公論社の編集者時代に書いていましたけど、ああいうスタンスが理想というか出発点だったんです。あとは野球なら山口瞳さんの観戦記とかね。彼らのやり方をサッカー版でやれたら自分も楽しいし、これ専門で食べていこうなんて思っちゃいけないなという感覚でずっとやってきました。

もはや言いたいことが、遺言になってきた

バルセロナFCがどれだけすごいかとか、こういう戦術なら勝てるといったおたく的な本ばかりを読んできたこともあって、さすがにこの頃は、当たり前の言説パターンに飽きが来ています。僕にとっては、朝いちばんでスポーツ紙のサッカーの記事を読んだり、ネットで世界のサッカー事情を追うのは代わり映えのしない日常の営み。でもそんなことは野球ファンも普通にやっていることでね。物珍しさの時代はもうおしまいにして、ファンカルチャーとしての賢さや質で野球を凌駕して欲しいとこのごろ強く思います。大勢でただ騒いでいるだけの一向に向上しないテレビ中継は、情けなくなってくるので消音状態で映像だけ追うことにしています。

サッカーがいちばん楽しかったのはいつかなぁ…。基本、苦しいことばかりですよ(笑)。本にも書きましたけど、これだけ長くやっていると、「さすが長くサッカー見ていますね」と言わせるポイントが文章の中にたくさんないといけなくなってくる。原稿の中に1、2カ所じゃどうしようもないわけです。でも60歳超えをした最近では、遺言的に言いたいことは何かを常に意識しています。要は、仮設でもいいから、とにかく近くで観戦出来る環境を日本サッカーに根付かせたいということです。関節のきしむ音やボールの打撃音が聞こえる魂のやり取りを間近で感じられるるのがサッカーの母国イングランド。芝草の問題を関係者の奮闘でなんとか解決してきた次は、フィールドの周りの陸上トラックを本当にどうにかしたい。たとえて言えば、野球場のファウルテリトリーに卓球台が置いてあったらファンは怒りますよね。そういった意味では、聖地でも何でもないですよ、国立競技場は。これから先はなんとか知恵を絞って、陸上トラック兼用のスタジアムでのサッカーは割引料金にするとかの施策が必要です。

もう一つの見たい夢は、寒冷地のクラブや学生がお構いなしの話になっちゃいます。秋冬制を導入して、野球が盛り上がる時期とぶつからないようにしてほしいんです。麦の種蒔きは、北海道、東北なら9月から始まるでしょ。米文化の日本は、田植えの前の4月から学校や会計年度が始まって、秋に収穫期が訪れる。秋春制は麦の場合ならいざ知らず、札幌,仙台、新潟、山形のような寒冷地のチームにとってはそもそも「問題外」だろうし、この夢は、絵空事に近い。でも、日本サッカーリーグ(JSL)の時代は21年目の1985年から最後の91/92年までの7シーズンを秋春制でやっていたんです。最近は逆にヨーロッパのクラブ連盟が、2022年カタールW杯に合わせて、Jリーグのように春秋にしようという動きが出てきて新たな混乱を招いていますが…。

小さいけれど、優れたスタジアムの価値

Jリーグ開幕から20年が経って、改めて「現場で観ているのか?」と問い直してみると、亡母の介護のことなどもあってあまり行ってないんですよね。川崎フロンターレのホーム、等々力陸上競技場が距離的的にいちばん近くても、多摩川を間にはさむことから、どうしても自分のクラブとは思えない。陸トラのない国立西が丘サッカー場(現・味の素フィールド西が丘)が今でも一番好きな居場所で、多目的な調布の東京スタジアム(現・味の素スタジアム)に行くのが辛い。もちろん何度も行ってはいますけど、不便な乗り換えが2回を超えると気持ち的に文化の同一性が切れてしまう。西が丘では、毎年11月に、7千258人しか入れない高校サッカーのA、Bブロックの決勝を2試合やるんです。それがもう実にいいんですよ。日が沈んで、だんだん暗くなって明かりなしにはやれなくなるころには決着がついて、負けた側が泣いている。母校が決勝まで行ったことが2度あって、2度ともも一人で観に行って悄然たる思いで帰ってきました。とくに2011年の二度目の終わり方は、あの“ドーハの悲劇”に負けず劣らずの痛恨事でした。

いま急に思い出したんだけど、Jリーグの試合で負けた後にスタンドへ謝りに行くのは止めるべきです。応援は消費者運動じゃないんだから。サポーター席に行っていちいち深々と頭を下げるなんてことをやっているのは日本だけじゃないですか。どうもあれは、陸トラ越しの遠い所から観戦させてご免なさいという無意識が働いているからなのではと疑っています。試合の展開と一切関係なく、あんなにピョンピョン跳び続けるのは、どうせ遠くてディテールが見えにくいからという半分やけくそな気分があるんじゃないですか。まともな環境だったら好プレーに思わず拍手をするものでしょう。自分たちの寄付で頑張って造ったサッカー場だったら、応援になっていない跳び続けで構造物の劣化を早めるようなことはしませんよ。降格の決まる試合のあと、落ちてしまった側に拍手を送るようなったのも割と最近のことです。日本人が本来持つ惻隠の情みたいなものに触れると、経年観戦疲労のせいかホッとします(笑)。とはいっても、未成年ばかりの現場で、ダダダッと観客席に走って行って、「ありがとうございました〜ッ!」とロボット的にやるのも違う気がしますけど…。クラブハウスで、美味しいお茶の一杯でも振る舞い合えばいいのにね。伝統が合理性を超越するものとして必要だと言うのもまた年寄りの文化なのかな、という気がします。

佐山一郎が選んだベスト11

W杯得点者たちのベストイレブン

ワールドカップの本大会で点を取ったことのある人だけで選んだベストイレブンです。過去、ゴーラーは10人いて、一人で2点取ってるのは、本田圭祐選手と稲本選手だけ。さすがにGKは点を取っていないので、1936年のベルリン五輪でスウェーデンを破った「ベルリンの奇跡」のGK:佐野理平さんにしました。監督は、女子W杯で歴史的な大仕事を成し遂げた佐々木則夫監督で、コーチは、岡田武史さんにニラミを利かせててもらいましょう。夢か現か幻かの超実績主義による選出です。
 
フォーメーション:3-4-3
監督:佐々木則夫(コーチ:岡田武史)
FW:玉田圭司/中山雅史/鈴木隆行
MF:森島寛晃/岡崎慎司/中村俊輔/本田圭佑
DF:遠藤保仁/稲本潤一/中田英寿
GK:佐野理平

佐山一郎 プロフィール

佐山一郎(サヤマ イチロウ)

佐山一郎プロフィール

1953年東京生まれ。成蹊大学文学部文化学科卒業後、流行通信に入社。『スタジオ・ボイス』編集長を経て、80年代半ばよりインタビュアー、コラムニスト、ノンフィクション作家として活躍。85年には雑誌『Number』特派記者として、平壌、ソウルでの86年メキシコW杯予選を密着取材。90年には同誌にイタリアW杯紀行を寄稿。ほかにも『PLAYBOY』にメキシコW杯紀行、同誌及び『サッカー・マガジン』に02年日韓W杯本大会、06年ドイツW杯アジア予選・本大会関連、『BRUTUS』に98年W杯プレ紀行などを執筆した。主著書に『雑誌的人間』、『VANから遠く離れて 評伝石津謙介』など。

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