サッカーを愛して止まないあの人の ゆめのはなし

ドイツ、フォルトゥナ・デュッセルドルフのフロントに日本人がいるのを知っているだろうか。24歳で単身ドイツに渡って様々なチームで経験を積んだ瀬田元吾は、日本デスクとして在独の日本人向けの活動やスポンサー契約、日本人選手のサポートなどを行っている。選手としてではなく、フロントとして働く珍しい日本人は、なぜそこに行き着いたのか。サッカーから離れられなかった男の30数年の歴史。

憧れのカール・ハインツ・シュナイダー

小さい頃からサッカー選手が夢でした。でも、子どもだった80年代はテレビでサッカーの試合を放送していなかったので、「日本でサッカーを仕事にする」ということがあまりピンときていませんでした。「夢はサッカー選手。だけど、日本のサッカー選手ってどこで何をしてるんだ?」という感じ。トヨタカップやW杯でようやく映像が見られるようになって、「あ、これだ!」と感じて、「こんなにたくさんお客さんが入っているスタジアムでサッカーができたら最高だな」と子供心に思っていました。90年のW杯イタリア大会で西ドイツが優勝したのを見ていたことや、愛読していた『キャプテン翼』で西ドイツの子たちがかっこよく描かれていたのもあり、西ドイツに憧れていて、「いつか僕はドイツに行ってプロになりたい」と言っていました。ちなみに憧れていたのはカール・ハインツ・シュナイダーくんです。

へたくそな自分がこのまま「プロになりたい」と言い続けていていいのか

今では海外チームの日本デスクという立場ですが、自分が選手だった時は、チームで何かを成し遂げた時の達成感がサッカーの1番の楽しみでした。どちらかというと、自分が点を取ることより、アシストをするのが好きでしたね。これはサッカーに限らず自分の本質的な部分だと思うのですが、主役にはなりたいけれど真の主役キャラではないと自分で思っているんです。ただ「輝いている奴らを輝かせているのは俺なんだぞ」という感覚が好き(笑)。本質的にSなんだと思います(笑)。「裏でゲームを支配しているのは俺だぞ」くらいの気持ちで、「君はボールに触っただけで、99%俺のセンタリングがあったからこそのゴールだよね」みたいなプレーをしたがりました。もちろんスルーパスが好きでしたし、個の勝負であり騙し合いであるドリブルも、抜けた時の優越感が気持ちよくて大好きでした。
 
一方で、中学校は名門でもなんでもありませんでした。高校1年の時に地区選抜に選ばれて、東京の選考会までは行かせてもらいましたが、「上には上がいるな」と子供ながらに思っていました。自信と現実のはざまで、思春期は常にフラフラしていましたね。2年生では地区選抜でキャプテンに選ばれ、その次の東京都の国体候補までにはなりましたけど、最終的には選ばれませんでした。入れませんでしたが、都代表でこのくらいのレベルなんだというのを肌で感じて、「頑張ったらプロを目指せるのかもしれない」と、高校2、3年生で思っていました。ただ、常に弱気の自分もいて、サッカー選手が駄目だった後の人生を考えて「自分は筑波に行く」と、中学3年生ぐらいの時から先生に言っていました。
 
筑波は国立でしたし、サッカー選手が終わってからの人生を考えたら、他とは比べものにならないくらいステータスがあったんです。中学も高校もプロを目指すレベルの人間ではないと思っていましたから、大卒でプロを目指すのであれば、プロをたくさん排出している大学にいかなくちゃいけないと考えての、筑波でした。そんな気配を察知してか、当時の高校サッカー部の先生には「お前は筑波からドイツのケルン体育大学にいって指導者の勉強をしてこい」と言われていました。でも自分の中では、指導者になるイメージはなかった。僕が指導者になる頃には、指導者が溢れているだろうし、ダメなら1年でもクビという仕事はどうなんだろうと思っていたんです。それでうっすらとトレーナーをイメージしていたのですが、筑波大学に入学してみると、勉強もサッカーも僕よりできる人間が「将来はトレーナーを目指す」と言っていたのを聞いて、これは勝てないと気づき、大学1年でその考えも変えました。とにかくひねくれていたんだと思います。周りと違うことで評価されるにはどうしたらいいかを、サッカー選手への夢とは別に常に模索していましたね。
 
そもそも「Jリーガーになって、日本代表になってやるんだ」という思いは正直なかった。プロになりたい、という意地はありましたけれど、サッカーが特別上手なわけではないと高校時代からずっと感じていましたし、自分より上手いと思っていた人がサッカーを辞めていくなか、へたくそな自分がこのまま「プロになりたい」と言い続けていていいのかなともずっと思っていました。

先輩たちにボロクソに言われた選手時代

ドイツに渡る前の2003-04シーズンは、群馬FCホリコシ(現アルテ高崎)でプレーしていました。その前には水戸ホーリーホック、ヴァンフォーレ甲府、横浜FC、佐川急便東京FC、横河武蔵野FCのトライアウトを受けましたが、どこも決まらなくて、もう駄目かなと思いながら最後に受けたのが群馬でした。群馬は当時J1の3つ下の関東リーグのチームながら、「Jリーグを目指している」とはっきり言っていました。J落ちの選手も10人以上いて、コーチもJを経験した方だったので、関東リーグとはいえすごく厳しい練習でした。Jのチームをクビになってやってきた選手たちは、元々高いレベルで頑張ってきたわけで、這い上がろうというハングリー精神がすごく強かった。僕はようやくチームに入れたことで充実感や達成感を感じてしまっていて、最初は彼らからボロクソに言われました。でも、ここで逃げたら「あいつ、逃げたな」と言われてしまう。「こいつらに一目置かれるためには」をとにかく考えました。そんな時、サイドからボランチにコンバートされてプレースタイルがガラッと変わり、とにかく諦めない、ファイトするということを決めたんです。チームの走り練習の日はトップを走って「サッカーはそんなにうまくないけど、運動量と根性はある」と認知されるようにしようと。半年ぐらいかかりましたけれど、「お前は本当にファイトある」と思ってもらえるようになりました。翌年チームはJFLには上がったのですが、僕は出場数は少なくて、2年目はアマチュア契約に。ここで初めて「サッカーでお金をもらって生活できていたのは、すごく幸せなことだったんだな」と感じました。

ドイツへ。思い描いた夢の実現と現実。

24歳でクビになり、「JFLレベルではできるけど、J2では難しい」と思った時、バイトをしながらアマかプロか分からない状況でやっていったら自分の将来はどうなるんだろうと想像したんです。就職するにしても中途採用で、サッカー以外何も強みがない。その時、小さい頃からの夢だったドイツには、アマチュアの3部、4部でもお金がもらえるという話しを耳にしました。ドイツW杯開催まであと1年半、一所懸命サッカーをやって、ドイツ語もしっかりやろう。アマチュアでもお金をもらえれば楽しいだろうし、もしW杯が終わった時点で生活できるほどお金がもらえなければ選手は諦めて帰ろう。もしくはドイツ語ができるようになっていれば、きっと何か仕事はあるだろうとも考えました。そう思って、ドイツ語の勉強とサッカー、その2つのためにドイツに渡りました。行くと決めたら、後はどこに行くかだけ。他の部分はノープランで、「がむしゃらにやろう」とだけ思っていました。
 
行く先を相談した高校の先生とドイツ帰りだった群馬のGMから、カール・ハインツ・マイヤーさんとデュッセルドルフのフォルトゥナというチームを教えてもらいました。教えてくれただけで紹介をしてくれたわけでもなんでもなかったんですけど(笑)。マイヤーさんは、フォルトゥナの元会長だった方で、デュッセルドルフの日本人コミュニティとも密接に関わっていらっしゃる方でした。
 
ドイツでは、日本最後のキャリアである関東リーグ(4部)より下の6部辺りから挑戦しようと思って、デュッセルドルフの4~7部ぐらいのチームをとにかく調べて、鞄ひとつで扉を叩きました。半年ぐらい続けていたとき、フォルトゥナの入団テストを受けさせてもらう機会があったんですが、あえなく落選。落ち込んでいたら、ドイツに渡って半年で初めてマイヤーさんにお会いできたんです。自分の片言のドイツ語でこの半年間やってきたことと「何とかフォルトゥナでもう一度トライしたい」という希望を伝えました。そうしたら、セカンドチームの練習参加の話しを取り付けてくれたんです。1ヶ月半の練習で、何十人が来ては去っていく中、ひとりの入団が決まり、僕だけが未決定のまま残っていました。「お前のパフォーマンスには満足しているけど、チームの予算的に難しい。他のクラブを紹介するよ」と言われたのですが、「僕はここでやれないならサッカーを辞めようと思っている。最初は給料がゼロでもいい」と伝えました。半年やって見直してもらえれば、と思ったんです。とにかくこのステータスが欲しかった。次の日の練習前に呼ばれて、チームの鞄、スパイク、練習着、ジャージを渡されて、クラブに入会するサインをしました。サインをしてロッカールームに入っていくと、みんなワーッと喜んでくれた。ワーキングホリデーで1年の滞在予定だったので、ここに来るまで「半分費やしたぞ」という気持ちの焦りもあって、本当にうれしかった。
チームが決まった3日後の公式戦にスタメンで出ました。「いらないと言ったくせにいきなりスタメンで使うとは何だ」と思いましたけど(笑)。その試合にフル出場して、試合にも勝ちました。次の日の新聞には「日本人デビュー」なんて書かれて、「こういうのをやりにきたんだな」と胸が熱くなりましたね。誰も知らない土地でひとりで戦って得た、あの時の達成感はすごかった。いろいろな人の支えもありましたけれど、「自分の力で居場所をつくれた」という感じですね。でも、結局試合に出られたのは3試合だけ。その後、チェコで最後のトップリーグ挑戦をしたのですが、うまくいかず、ドイツに戻ったら燃え尽き症候群で完全に放心状態。それでもビザの関係で語学学校に入らなければならなくて入り、結局フォルトゥナにも戻らせてもらいました

自分の強みとはいったい何か。

そしてドイツW杯が始まりました。自分の決めたリミットを迎えたのに、ドイツ語が武器と言えるところまで使えるようになっていなかった。このまま日本に帰っても、「26歳まで何となくドイツでサッカーをやってきた頑張り屋さん」というだけになってしまうという焦りと恐怖がありました。「どうすれば自分の強みを確立できるのか」を考えた時、これはもう腹を据えて「ケルン体育大学でスポーツマネージメントを勉強しよう」と決めました。そこから猛勉強して、8ヶ月後に大学に合格。今度は生活費を確保しなくちゃいけなくなり、ドイツ語も中途半端でサッカーしかできない僕は、「下のリーグでもいいから、一銭でも多くお金をくれるところを目指そう」とテストを受け、ラーティンゲンという街の5部のチームに入団します。結果的にそのチームには2年間お世話になりました。すごく充実した2年間でしたね。1年半ぐらいほぼ主力で、ドイツでいちばんしっかりサッカーをやった時期もしれません。
大学院にも入ったのですが、2008年に現場に入りたいと思い始めて大学を休学。フォルトゥナのフロント宛に「デュッセルドルフには日本人社会がある。チームと近づけるために日本語のHPを作りましょう。そして日本のスポンサーを取りにいきましょう。選手も採りましょう」と書いて、履歴書を送ったんです。返事を待つ間、いつでも動き出せるように毎日フォルトゥナのHPを勝手に翻訳していました。でも、1ヶ月待っても返事が来ない。もう1通出しても返事が来ない。もう1通出してみる。3回送っても返事が来なかったので、またマイヤーさんに相談したら、彼が怒って「こういう人材を、どうしてあのクラブは採らないんだ」と話してくれて、広報部長と面談させていただくことになりました。そこでとりあえず研修生からやれることになって、日本デスクという肩書でいまに至ります。

サッカーから離れることが怖かった。

なぜこれだけサッカーにまつわる仕事にこだわったのか。僕は何も持っていなくて、サッカー以外に情熱を傾けられなかったからではあります。でも実際は社会に出るのが怖かったんだと思います。同級生たちのように「会社に就職するって、どういうことなんだろう」、「みんな何が楽しくて仕事をしているんだろう」と思っていました。メンタルがすごく幼かったんだと思います。いつまでもピーターパンみたいな気分というか、サッカーで夢を見ている感じでした。「サッカーで生きていくんだ!」というのは、表面的には意地や信念があるように見えるかもしれませんが、自分の中では、サッカーから離れた仕事をすることが怖かったんですよね。プレーする以外にも、クラブや選手のマネージメント、エージェント、旅行関係のコーディネイトなど、サッカーにまつわる仕事がいっぱいあるということがわかった時、自分の向かう方向はそっちなのかなと気づいたんです。

夢を夢で終わらせないための目標設定

実は今年ドイツで起業しようと思っています。遠征のコーディネイトや日本でのメディア出演、解説、講演をさせていただけるようになってきたこともあって、そうした活動をきちんとマネージメントをする意味でも会社にすべきだろうと。フォルトゥナの日本デスクをやりながら、もしかしたら、僕がつくった会社を通じて日本のクラブからドイツのクラブへという流れが生まれるかも知れません。
10年近くサッカーにまつわる仕事をやってきた中で、僕は夢と目標は明確に分けています。夢は、夢のうちは叶いません。夢を目標にした時に、初めて叶えられる可能性が出てきます。抽象的な表現ですが「日独の架け橋になりたい」というのが僕の夢です。自分がこれからずっとサッカーに関わっていく中で、自分なりの関わり方で日本サッカーが成長するために何かをしたい。日本のために、日本とドイツの架け橋となることで、何かが動いたり、経験してもらえたり、知識が渡ったりする。そういう橋になり、それがゆくゆく日本のサッカーの発展に繋がっていってくれたらうれしい。その夢を叶えるための目標として、「会社をつくる」とか「遠征をオーガナイズしよう」といったことを考えていき、サッカーを取り巻くいろいろな環境や考えられること全てを自分の仕事、生業にしていきたいと思っています。

瀬田元吾が選んだベスト11

ブンデスリーガ経験者のベストイレブン

これまでにドイツ・ブンデスリーガ1部、2部でプレーしたことのある選手から選びました。GKだけがいないので、例外として内田選手と親交の深かったドイツ代表ノイアーに。一風変わったフォーメーションですが、DFラインは平均183.6cmと大型。中盤は長谷部、小野、香川、清武でボール支配率を高め、両サイドはCLで活躍経験の豊富な奥寺、内田のサイド攻撃があります。ディフェンス面が若干不安ですが、こんなチームがあったらブンデスリーガでも面白いサッカーをしてくれそうですよね。
 
フォーメーション:3-6-1
監督:クロップ(現ドルトムント監督)

瀬田元吾 プロフィール

瀬田元吾(セタ ゲンゴ)

瀬田元吾プロフィール

1981年、東京都生まれ。学習院中等科、高等科を経て筑波大学体育専門学群に入学し、蹴球部に入部。卒業後、群馬FCホリコシなどを経て05年に渡独する。選手としてプレー後、08年よりフォルトゥナ・デュッセルドルフのフロントとして活動を開始。日系企業とのスポンサー契約、そして大前元紀選手の獲得に奔走した。昨季は大前選手の通訳兼フロントスタッフとして日本人向けの「フォルトゥナ通信」を出すなどする傍ら、テレビ出演、講演会などもこなしている。

ページの先頭へ