サッカーを愛して止まないあの人の ゆめのはなし

1979年のサッカー黄金世代の生まれで、自ら「裏海外組」と名乗り、タイ、バングラディッシュ、ウガンダ、モンゴルといった国でプロとしてボールを蹴ってきた。波瀾万丈で勇猛果断。チャレンジに溢れたサッカー人生と、その意図を語ってもらった。

選手権で燃え尽きた10代の終わり、新しい世界を求めた20代の始め

そりゃ、日本でプロになりたかったですよ。でも、僕のイメージとしては選手権こそが巨大なオーディション会場で、その舞台に立てなかった時点で「あ、これはオレ、もう落ちてるんだな」と思いました。それ以外の方法もその時は知らなかったし。
それでも、会社に入って神奈川県リーグの港北FC(現VERDRERO港北)でサッカーしてるうちに、段々日本のサッカーのシステムというか組織図みたいのが分かってきたんです。県リーグにもカテゴリーがあって、そこで勝つと地域リーグがあって、その上にJFL…。ああ、社会人でも上のリーグを目指せるんだ、と知ったのが21歳くらいですね。それから1年くらいは会社をちょこちょこ休みながら、日本各地のJを目指しているチームのテストを受けてました。図南SC(現tonan前橋)とかニューウェーブ(現ギラヴァンツ北九州)とか新日鉄大分(新日鐵住金大分サッカー部)とか。結局、図南SCに合格して会社辞めて群馬に行ったんですが、思ったより試合に出ることができなくて。退部して神奈川に戻って、スクールの手伝いをしてたんですけど、そこで屋良充紀(やらみつとし)さんという方に出会ったんです。
屋良さんはブラジルやエクアドル、コロンビアなんかでプレーしてた人で、選手の自主性を尊重した指導そのものも勉強になりましたが、それよりも22歳の僕には、スクール終わりに飲みに連れてってもらったりして、そこで聞く屋良さんと彼の周囲にいるやっぱり海外でプレーしていた仲間との「ブラジルで生活していてこんなことがあった」「コロンビアではひどい扱いを受けた」なんていう海外の話がすげえ面白かったんです。「聞いているだけじゃなくて、こういう輪に自分もしっかり入りてえな」と思ったのが海外に出る動機で、「その経験を活かして自分のサッカースクールを開校したい」というのが目標だったのかもしれません。

キャリアをスタートさせたタイ、サラリーは月1万2000バーツ

最初に渡った国はタイでした。2003年ですね。スパイクと「地球の歩き方 バンコク」と現金15万だけを持って出国しました。ズルズルいるのも嫌だったし「この15万がなくなるまでにプロになれなかったら帰ろう」と決めてましたね。
なぜタイかといえば、会社員時代に知り合ったラオスからの難民がいて、そいつが「兄がタイのクラブにコネあるよ。ダイダイ」と教えてくれたんですよ。「ダイダイ」はタイ語で「大丈夫大丈夫」という意味で、今ならタイ人の「ダイ」はあんまり信用なんねえと分かるんですけど、当時はそんなこと分かるわけなかった。
実際に行ったら、やっぱり、でした。その兄貴はクラブにコネがあるどころか、クラブに出資している企業の工場に勤務しているだけで、なんのコネもなかったんです。日本ならトヨタとか東京ガスで働いてる感じですかね。
ホテルで途方に暮れてたらドアがノックされて、女の子が立ってたんです。その兄貴の知り合いで日本語が上手で、その兄貴はバードって名前なんだけど「バードさんが『悪いことしたから、ユタカって人を泊めてあげて』って言うから来た」って。その後しばらくはその子の家に滞在させてもらってたんです。でも、そのエリアは「地球の歩き方」をどんだけ読んでも載ってなくて、聞いたらそこはバンコクじゃなくてノンタブリーという隣の県だったんですよね。
知らない土地で何にもやることなかったから、近所にあったコンクリートのピッチで、これ言っていいのかな? といっても100バーツ(当時のレートで約300円)くらいですけど、賭けサッカーをしていたんです。けっこう勝ってたんじゃないかな。そしたらある日、原付で陽気なタイ人が現れて「お前か、プロを目指してるっていう変な日本人は。クラブあるから紹介してやる」ってタイ・タバコ・モノポリーというクラブを紹介してくれたんです。
いま振り返っても運は良かったと思います。日韓W杯の影響で「ナカタ」と分かりやすく呼ばれていたし。でも、コンクリサッカーでもヒールリフトやラボーナなど、目立つプレーをしてたのが実を結んだのかな、とも少し思いますね。
テストに受かって、練習に参加して、練習試合で点を取ったら「契約しよう」ということになって、サインしました。日本を出てから4ヶ月ですね。3年契約で契約金はなし。書類はタイ文字だったからよく分からんかったけど、月1万2000バーツだったのは覚えてます。あとは練習に出たら300バーツ、公式戦の出場給が1000バーツくらいあったかな。
シーズンが始まってそれなりに試合には出たんですけど、チームは降格争いをしていて成績は悪かった。選手全員の契約が途中で見直されて、僕も単年契約になってしまったのでシーズンを終えてから次の国、バングラディッシュを目指しました。

ネタを求めてバングラディッシュ、ウガンダ、そしてモンゴルへ

というのも、タイのトップリーグでプレーした日本人選手は既にいて、僕は2番目だったんですよ。移籍を含めタイに残れないこともなかったけれど、どうせなら1番目の日本人選手になりたいじゃないですか。
日本人にとってインド、バングラディッシュはまだ未踏のリーグだったので、よりインパクトのあるバングラディッシュを選びました。その後に行ったウガンダもほぼ同じ理由ですね。ツテもコネもまったくなかったですけど。
でもその頃からですね、自分の中でお金を稼ぐことよりも「ネタになりそう」がハッキリと優先され始めたのは。屋良さんに出会ってから、「将来的には自分の色のあるサッカースクールをやってみたいな」という気持ちもベースにあったので、まずはプロ選手という肩書きが欲しかった。
あとは、タイでのいきさつや経験を人に話すと、誰もがすんげえ面白がって聞いてくれた。「おお、これはこのペースでネタを増やせば財産になるぞ」とも考えてました。
バングラディッシュでもその後に行くウガンダでもモンゴルでも、名前も思い出せないくらいたくさんのチームの門を叩いて、どれだけお礼をしても足りないくらい大勢の人にお世話になりました。何度もどうしようもない状態になって途方にくれたし、給料の滞納&未払い、口約束の破棄なんてしょっちゅうでした。クラブとモメたら「あいつのビザ、おかしいぞ」と密告されて警察に踏み込まれたこともあります。
その中で僕なりにブレなかったものがあるとしたら、「自分でやること」だった気がします。お願いも移動も交渉も契約もアピールも、全部自分でやりました。今、海外挑戦する選手は既にその国、そのリーグの情報がある程度あって代理人がいる。だからラクだ、とか言う気はまったくないですし、彼らの多くは自分の足でお金を稼げるのだから、それはとても素晴らしいことだと思います。僕の足からは多くのお金は生まれなかったので羨ましい気持ちもある。
でも、僕はそれと引き換えに、本当にたくさんのことをひとりで考えたし、自分で足掻いて経験値も得ました。時にはウガンダでマラリアになって栄養失調も併発して入院して、自分で汚れたパンツを洗って「この姿、これがプロサッカー選手かよ」と嘆いたりもしたけれど、結果「これでネタは増えたな」とも正直、思ってましたから。
ただ、実はまだ僕は引退宣言してないんです。2010年に時間ができた時、モンゴルリーグに突如、挑戦したように、いつかまた選手プレーするかもしれません。やるならヨルダンがいいなあ。ヨルダンって「Jordan」だからJリーグなんですよね。

いつかアジア全土を巻き込んだ「ユタカ祭り」の開催を

2004年がタイ、05年にバングラディッシュ、06年にウガンダ、3国でそれぞれシーズンを過ごしました。ちょうどウガンダのシーズンが終わったタイミングで、屋良さんがJFAの「アジア貢献プログラム」でシリアに2年間派遣されることになったんです。
「ユタカ、その間チームを見てくれないか。ただ、頼んでおいて悪いけど、給料はそんなに払えないんだ」
「いくらです?」
「月15万円」
「そんなにもらえんの!?」
その時、僕の年収は3万円くらいでしたからね。お金はただの笑い話ですけど、巡り合わせみたいなものはあるのかな、と思って横浜で暫定の指導者になりました。
そのエスコリーニャFCというチームを3年間見ていて、屋良さんが戻ってきたのが2009年。バンコクとパタヤの間くらいにシラチャという海沿いの街があるんですけど、そこにちょうど日本人学校ができるという話を聞いたんです。
さっきも言ったんですが、バングラディッシュにいる頃くらいから「何か自分の色のスクールができたら面白いな」と思い始めてたんです。僕は左手に障害(先天性左手首欠損)があって、だからこそできそうだ、やってみたいと思ったのが障害者のサッカースクールだったんです。それを開校するためにまず、日本人学校のスクールから始めた感じですかね。
けど、最初はスクール生3人。グラウンドの確保、送迎バスの手配と交渉、保護者への説明etc…。これもぜんぶ自分でやって、利益が出るのに2~3年かかったかな。
ちょっとだけ実績ができた頃に、こっちでお世話になっているユニホーム屋さんに「バンコクのろう学校を紹介できるよ」と声をかけてもらって、そこでボランティアでスクールを始めました。これはお金とは関係なくずっと自分がやりたかったことだから嬉しかったですね。
彼らに接する前は「障害者だし、元気がなかったりちょっと劣等感に似た気持ちを抱いているのかな」と勝手に思っていたんですが、いい意味で驚きました。キャラも立ってるし、ガンガン自己主張してくるし、すんげえ面白かった。それはずっと変わらないですね。結局いまは、バンコクとシラチャの日本人学校、バンコクとバンセンのろう学校、バンコクの孤児院からも指導を頼まれて、ぜんぶで5チームを教えてます。
でも、「指導」とか「教える」とか言っても、サッカーの戦術を叩き込むわけじゃないし、技術指導もしない。僕も一緒にサッカーしますし、本気で勝ちにいきます。遊んであげているような気もするし、遊んでもらっているような感覚もあります。僕も勉強させてもらってますね。
例えば、ろう学校でいうと、日本の手話は勉強していたんですけど、タイの手話はまた別だからまたそれを覚える必要があるんです。それを勉強して彼らとコミュニケーションがとれるようになればなるほど、いろんなことができるんだな、ということに気付かされます。
将来、今の教え子たちがどうなるかは分からないし、「オレの指導でこいつらの人生を向上させよう」というような偉そうで難しいことは考えてません。「ユタカと一緒にサッカーすると楽しいな」と思ってくれたら嬉しいし、その先で少しでも彼らがチームメイトをはじめ他人に対していいヤツでいてくれたら、という願いのようなものはあります。
指導者としてのゆめ、ですか? まずは来年、日本のろう学校の選手をタイに呼びたいですね。今年、バンコクのろう学校チームが豊島区大塚にあるろう学校に遠征に行ったんですけど、それのホーム版を実現させたい。
あとは、それにリンクして、年に2回「ユタカ祭り」という、5チーム混合ごちゃまぜの大会をタイでやってます。日本も含めてタイを拠点に広がりを大切にして、ACLみたいにアジアを巻き込んでの「ユタカ祭り」、それを実現させたいです。興味ある方はぜひ連絡ください。

相原 ユタカが選んだベスト11

お世話になった誰も知らないマニアックベストイレブン

全員、フルネームを覚えてないのでニックネームの人もたくさんいます。許してください。監督は海外に目を向けるきっかけとなった屋良さん。神奈川リーグで一緒にやっていた血まみれGKを守護神に据えて、最終ラインはタイリーグで世話になったベンジャミンとサッダー、バングラディッシュで一緒にやってウガンダで再会したマイコー。左はまだ引退宣言をしてない自分を入れたいですね。
中盤の真ん中だけは豪華です。ガーナに行ったとき「マンデースターズ」っていうゲームで一緒にやったガーナの英雄3人。トップのエドワードの決定力はまあまあ。自分で選んでおいてなんだけど、このチーム、だいぶ弱いですね。神奈川県1部で勝てますかね、微妙だ。
 

相原 ユタカ プロフィール

相原 ユタカ(アイハラ ユタカ)

相原 ユタカプロフィール

1979年神奈川県生まれ。高校卒業後、神奈川県リーグなどでプレーしながら会社員生活を送るも海外でのプレーとキャリアを求め、2003年に渡泰し、04シーズンはタイプレミアリーグ1部TTMFC(タイ・タバコ・モノポリー/現在のTTMカスタムズFC)でプレー。翌年にバングラディッシュ、さらに06年にはウガンダ、10年にはモンゴルのそれぞれ1部でプレーし、これら3国ではリーグ初の日本人選手となった。09年にタイにユタカフットボールアカデミーを設立し、現在はバンコクを中心に5チーム約240人の指導にあたっている。http://www.yutaka-fa.com/
 

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