サッカーを愛して止まないあの人の ゆめのはなし

人と人が殴りあい、肉体を衝突させあうパフォーマンスで身体芸術の可能性を拡張し、いまや現代アートの領域でも活発に活動するcontact Gonzo。2014年10月、パフォーミングアーツのフェスティバル「KYOTO EXPERIMENT」で、京都サンガF.C.のホームスタジアムである西京極スタジアムを会場に、新作『xapaxnannan(ザパックス・ナンナン):私たちの未来のスポーツ』を発表した。その根にあったのは、代表を務める塚原悠也のサッカー経験だった。

『xapaxnannan:私たちの未来のスポーツ』
「Performance in MOMA」

視覚情報が無効化されるスタジアムという場所

西京極スタジアムを使って発表した作品『xapaxnannan:私たちの未来のスポーツ』は、「KYOTO EXPERIMENT」というイベントで発表した作品でした。京都には京都芸術センターのようなアートセンターやメトロのようなクラブ、他にも小さなアートスペースがいくつもあるのですが、“京都=ちいさい小屋”というイメージが自分の中にあり、今回は規模感がまったく違うところでやってみたいと考えたんです。「でかいことをやりたい」とかではなくて、お客さんが見えへんぐらい遠いみたいな、全然やったことのないサイズ感という意味で。いろいろ考えているうちに「そういえば昔よくスタジアムでパフォーマンスをするシミュレーションをしていた」と思い出して、「西京極スタジアムでやりたい」とイベントのディレクターに相談したら、驚かれながらも「おもしろい」と言ってくれて実現に至りました。
そのシミュレーションをするまでに、いろいろな経験がありました。ひとつは、高校生の時、ロイター通信の高校生インターン募集に応募して、1ヶ月ロンドンに滞在したこと。96年、ダフ屋と揉めながらもマンチェスター・ユナイテッドの開幕戦のチケットを買って観戦。ホームスタンドの前から4列目というすごく良い席で、サッカー専用スタジアムなので目の前が芝生なわけです。スタンドに入った瞬間、バッと広がる景色がすごかったし、芝生もすごくきれいで感動しました。感動していたら、急にスタジアム中が歓声に包まれて、遠くでGKのピーター・シュマイケルが芝生のチェックをしていたんです。それだけで何万もの人々が大声で叫んで、喜ぶ光景はすごく印象に残っています。ただ芝生のチェックをしていただけですよ(笑)。
その後、大学に入ってパフォーミングアートの研究を始めます。パフォーミングアートの起源のひとつでもあるローマのコロッセオにしても、現代のスタジアムにしても、観客が遠くの席から行為を眺めること、つまり細かい所作がほとんど見えず、顔の表情もよく見てやっと分かる程度という試合観戦において、人が感動したり興奮したりするのはいったい何故なんだろう、という昔からの疑問を考えていました。大学院を出て劇場で働き始めてからも、小さい劇場だったのでどの作品も人の顔や汗粒が見えたのですが、すごいダンス作品を観た時、たとえばこの踊りをものすごく遠くから見たらどうなるだろうとか、パフォーマンスは何によって構成されているか、というようなことが頭を巡っていたんです。僕らのパフォーマンスも近くで観れば観るほどいろいろなことをやっているのがわかるんですけど、そうしたこれまでの考えのもと、距離を取ることで視覚情報が無効化されるスタジアムという場所でやってみたいとなりました。

フェイントとパフォーマンスの近似性/相似性

実際にやってみて、やりたいことができた部分と、やっぱり遠いなという部分は半々。お客さんは「全然見えへんかった」と怒っている人もいれば、「めちゃおもろかった」と言ってくれる人もいて、こちらも半々くらい。ルールをごく単純に説明すると、ボールみたいな、身にまとう事も出来る布の塊(作家、曽田朋子作で「ザパックスナンナン」と命名)を持っている人が他の人から逃げる、というものです。鬼ごっこに近い感じですが、それを成立させるためにいろいろルールをつくりました。
僕は長くサッカーをやってきたので、サッカーのルールでは未経験者との間に上手い下手がはっきりしてしまう。練習では、どうルールを変えていけば身体能力の差も含め、ある程度みんなが均等に楽しみ、且つ、意志、目的を持って動けるかということを考えていきました。そして、1点入るごとにルールを1個変えていくということをやってみたら、意外と簡単に能力が均等化されていった。最初は“左足禁止”のようなサッカーに関係あるシンプルなルール変更から始めて、最終的にはパスは全部ワンバウンド、且つ、全員後ろ歩きとかまでいきましたね。
そういうつくり方をしていきながら、みんなでロナウジーニョやガリンシャの映像を観たり、サッカーの歴史を振り返って、フェイントとパフォーマンスって近いんじゃないかみたいな話しになっていったんです。フェイントは相手に見せて勘違いさせるという、ある意味で見せる行為ですよね。フェイントは早すぎて見えなかったら意味がないわけで、どう動くか、もしくはどう動くふりをするかという練習ばかりしていました。この動きをしたい、見せたいという人が先導するかたちで動き始め、それに釣られて動く人、引っかからない人が発生してくる。そうした動きを明確化するために、ボールに代わるものを用意してパフォーマンスの中心をひとつつくろうとして、ピンク色の布の塊を使うように。そうしたパフォーマンスとしての細かいフェイントをやりたかった、というのがひとつあったのですが、難しかったのはボールがあると観る人はどうしてもボールの行方を追ってしまうので、その塩梅の良し悪しがありました。とはいえ、結末の熱狂ではなく出来事の過程と肉体の反射の連続を見せていくような、サッカーのゴールを巡る熱狂の反対をいきたいと思っていたので、その点に関してはある程度うまくいったと思います。

コンタクトゴンゾにおけるサッカー的なこと

スタジアムの作品に限らず、サッカーからの影響はあると思います。思いつきで出したパスが通っちゃうことだったり、「ここに走ったらボールが来るんじゃないか」という瞬間的な勘のようなものだったり、大体でジャンプしたらボールがすごいカーブで来てそのままヘディングで入っちゃうみたいなことってありますよね? そうした全能感というか、何をやってもうまくいくみたいな感覚について、作品づくりの初期によく話しをしていました。やっている人にしか分からないあの感覚は、きっとパフォーマンスに繋がっているんじゃないかと。そういう勘の部分や動物的な知性がうまく作用するパフォーマンスは、個人に身体化されたものであるために、やっている人にしか分からない感覚でもあって、どうも言語的な批評に乗りにくい。でも、そこをもう少し人間の知性であると認めてもいいんじゃないか、みたいなことが活動の根底にあります。すごいタックルやチャージを食らって吹っ飛ばされた時、走馬灯のように着地までの自分の動きが予想できてしまうようなことがありますが、そうした危険時の脳や身体のあり方も、全能感の話しと同じようにサッカーから学んで、影響を受けたことのひとつです。

サッカーのそもそものはじまり

僕が6歳のとき、家族でアメリカに引っ越しました。その引っ越し先が、日曜日に町内のみんなでサッカーをする地域だったんです。スポーツ教育的なことだったのかもしれませんが、町内のチーム同士で試合もたくさんあって、日曜日には「ママス & パパス」という親たちがやっていたチームに混ざって遊びとして楽しんでいました。大学の教員ばかりが住むすごく多国籍な地域で、元ホッケーのガーナ代表選手がいてものすごい身体能力だったのを覚えています(笑)。
小学校3年生で日本に戻ってきて地元のクラブチームに入りました。そこでドリブルや点に関わることが楽しくなって中学校もサッカー部に入ったのですが、顧問がほとんど来ない部で、僕がキャプテンとしてある程度練習を考えていました。と言いながら、実際は皆で好き勝手にやっていたんですが…(笑)。しかもそんなチームが、とんとん拍子で市長杯に勝っちゃうなんてこともありました。その後、入った大阪の千里高校という公立高校のサッカー部に、当時北陽高校や清風高校のような私立がすごく強くて、とても公立高校が勝てるような状況ではない中、本気で全国大会を目指している顧問の先生が来られました。そこそこ偏差値も高くて、スポーツ重視の学校でもなかったのに、顧問の先生は当時のイタリア代表が採用していた4-4-2のゾーンプレスをやると。私立のオフェンスは粒ぞろいのタレントがいるから、同じようにオフェンスを頑張るよりゾーンプレスでとりあえず0失点を目指し、カウンターで1点取って勝つ戦略でいくと言うんです。だから走り込みと守備の戦術確認をひたすらしていました。ただ漫然と楽しくやっていたサッカー偏差値の低い人間に、システムと言われても分からんぞみたいな感じだったのに、映像を見ながら先生がイタリア代表の動きを解説してくれたら意外とすぐに分かって、システマチックなサッカーの楽しみ方をそこで知りました。でもかなり組織的になっていきながら、攻撃の時はひらめきを大事にという考えは残っていて、ずっと我慢して我慢して、瞬間的にギュッと楽しむという感じでした。制約が多い分、解放時の喜びが強く湧いてくるというのはあったような気がします。結局、最高で府ベスト8までいきましたね。
海外サッカーは、90年のイタリアW杯から見始め、そのなかでもユーゴスラビア代表が一番好きでした。ユニフォームもかっこ良かった。というよりも後々、この地域の選手は他と気質やプレースタイルが全然違うという事がわかり、何度も映像を見返しました。サビチェビッチのドリブルは文字通り何度も何度もスローで見返した記憶があります(ちなみにサビチェビッチ、ガスコイン、スキラッチがこの大会で19番をつけていたので僕も中学生の時は19番をつけていました)。とくにスペイン戦はストイコビッチが縦横無尽に動き回って、天才的なゴールも決めるのですが、ぼくは右サイドの奥の方からずいずい出てくるプロシネチキがめちゃくちゃ好きでした。派手なのか、そうではないのか、よくわからない選手です。
ちなみに、いま活躍している選手では、去年自分たちのイタリアツアー中に実際に観ることができたローマのナインゴラン選手が一番好きですね。あとはアトレティコのアルダ選手。二人とも考え方が姿勢や動き方にとてもよく現れていて輝いていますし、なにかサッカーにおける新しい地勢図をも感じさせます。個人の動きが世の中の情勢、都市と人の在り方とつながっているポジティブな例なのかも知れません。エジル選手もドイツに新しい風を呼び込み、移民の人たち、移動している人たちのもたらす新しい価値感がサッカーにも実際に動きとして現れます。

もう1回サッカーが好きになり始めています

そうして高校までサッカーを続けていましたが、プロになることは考えられませんでした。なんなんでしょう。周りがうま過ぎたんでしょうね。これは反省していることでもあるんですけれど、サッカーを始めた最初の頃から半分諦めつつ、半分信じるくらいの感じだったんです…。小学校の頃に何度か稲本選手と対戦したんですけど、僕の周りでプロになっていく選手って、中学やもしくは稲本選手のように小学生の時から未来が決まっているような気がしていました。本当にサッカーへの強い気持ちがあったら、私立の強い高校に入ったはずなんです。もちろん勉強をがんばりたいということもあったんですけれど、あるにしても、親を説得して強豪校に行かなかった程度の根性ではそもそもプロは無理だったのだろう、と今振り返って思います。自分の限界をうすうす感じていて、その時点で負けていたのだと思います。
中学2年で、ガンバのジュニアユースの練習に参加した時がまさにそうでした。圧倒的に技術力が違ったんです。1軍に稲本選手がいて、ユースチームに宮本選手がいた時代。2軍での練習だったのに全くついていけなかった。「ここで諦めるのは早いよ」と親には言われました。いまだったら分かるんですけれど、その当時は完全に負けたと思ってしまった。そこで、もしちょっとでも可能性を見い出せていたらとは思ったりしたこともあります。ボンバーヘッドでお馴染みの中澤選手は食い下がって強引にヴェルディの練習生になってプロの道を進み、日本代表までいったわけで、自分の事を信じられる人もいるんだと知って、それがいまの僕の活動には活きています。何でもやるというか。必要以上に自分を信じるというか。追いつめられてもとりあえず構えてやってみる。若い頃はプロになるかどうかが絶対なんですよね。でも実際はならなくても終わりではなくて、サッカーとの関わり方はもっとたくさんある。それでいま、もう1回サッカーが好きになり始めています。文化人類学者の今福龍太さんの影響もあって、クリスチアーノ・ロナウドじゃないサッカーというか、僕ら自身のサッカーを取り戻すじゃないけれど、ロナウドのような鋼の身体じゃない僕らでも、誰でもサッカーをしていいんだと考えられるようになってすごく気が楽になりました。
 

同じピッチ上を自由に走らせてほしい。

ひとつは、バルセロナのようなめっちゃすごいチームの試合で同じピッチ上を自由に走らせてほしい。ボールに触らなくていいので、ガチの試合を選手たちはどういう身体感覚でやっているのか直に感じたい。
もうひとつはサッカーの放送や中継のカメラと編集と音声をアーティストにやらせて欲しい。そういうチャンネルをつくりたい。解説も有りか無しを選べる。カメラもいわゆるスポーツの放送言語ではなく、別の映像言語を共有するチームを組む。音声も編集もやらせてもらえたら、全然違う角度からサッカーを見せられると思うんです。マイク20台ぐらい使って、スタンドの声はもちろん、監督の声やベンチのつぶやきも拾ったりしたい。チームは困ると思うんですけれど(笑)。ボールだけを追うのではなく、遠くでその行方を見守っている他の選手の顔をインサートで入れてみたり。スタンドにいる人とか。体制と予算さえあれば、今すぐできると思う。市川崑が撮った「東京オリンピック」という映画にも、すごく影響を受けています。あの作品は、オフィシャルの映像でありながら、いわゆる国営放送や企業スポンサーに寄ったテレビ局では撮れないものをじっくり撮っている。マラソンで倒れる選手とかね。日本のJリーグでもそういう撮り方ができるはずなんです。ハードコアに映像の文脈のオルタナティブ性でスポーツを撮るということもできますし、例えば山口情報芸術センター(YCAM)にいるプログラマーの人たちとスパイクに仕込まれたビッグデータから何かを始めてもいい。どこかのチームの方、読んでいらっしゃったらぜひ!

塚原 悠也が選んだベスト11

塚原的90年代ベストイレブン

主に90年代に見ていた選手を選びました。タイミングとしてはボスマン判決という、ヨーロッパのサッカー選手に適応された労働基準法によって外国人枠が無くなり、多国籍軍団が作られ始めた前後という所でしょうか。これは僕にとっては衝撃的な事件で、それ以後、資金さえあれば夢のような布陣を組むことが出来るようになりました。一方、それって本当に面白いのかなと複雑な気分になって、今でもそれを多少引きずっています。昔ほど各国のリーグ状況を追わなくなりました。
吹田市出身ということもあり、ガンバのエムボマ選手の怖さは身を持って体験しています(もちろんスタンドから)。父親がある日「阪急北千里線でみかけたぞ。まだ足痛いって言ってたわ。晩飯誘えば良かったな」とコメントしてから、なぜか一気に身近に感じています。その後、京都サンガのユースにいた弟がヴェルディとの練習で対戦したと聞き、もう知り合いの気分です。カメルーン代表でのフランス相手のオーバーヘッドは色々な歴史をひっくり返すような美しさを持っています。一番のヒーローです。石塚啓次選手は日本人選手の中で一番のヒーロー。体つき、走り方、めちゃくちゃゴージャスでした。その(粋った)雰囲気を随分覚えています。雑誌『ナンバー』のインタビューも何度も読みました。ジャウミーニャ選手は、BSでスペインリーグやってた頃に見ていて、一番好きな選手でした。当時のラコルーニャが好き過ぎましたね。イエローカードをもらい過ぎで、2試合に1回くらいしか出てこないイメージですけど。めちゃくちゃテクニカルなのにどこか毒々しくて。レドンド選手は姿勢が良いし、パスが本当に生き生きしていた。あと彼は大学が農学部で、それもかなり影響を受けました。全然違う事をやってますが。

塚原 悠也 プロフィール

塚原 悠也(ツカハラ ユウヤ)

塚原 悠也プロフィール

1979年、京都府生まれ。2004年 関西学院大学文学研究科美学専攻修了。現在、大阪市在住。
06 年にダンサーの垣尾優と共に「contact Gonzo」を大阪にて結成。公園や街中で、「痛みの哲学、接触の技法」を謳う、即興的な身体の接触を開始。contact Gonzoとして、ニューヨーク近代美術館(MoMA)や、ヨーロッパ各国でのダンスフェスティバルなどに多数参加。国内では森美術館や国立国際美術館、山口情報芸術センター(YCAM)での現代美術展にも参加し、映像、写真、日記などを組み合わせたインスタレーション作品を発表。ソロ活動としては、2014年にNPO法人DANCE BOXの「アジア・コンテンポラリー・ダンスフェスティバル」でプログラム・ディレクターを務め、東京都現代美術館の「新たな系譜学をもとめて 跳躍/痕跡/身体」展ではパフォーマンスプログラムの企画を行った。2011年より、セゾン文化財団ジュニア・フェロー助成対象アーティストとして採択。http://contactgonzo.blogspot.jp
 

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