サッカーを愛して止まないあの人の ゆめのはなし

8月11日に行われたスルガ銀行チャンピオンシップ2015 OSAKA。日本の代表クラブのガンバ大阪と対戦したのは南米代表のリバープレート。クラブ創設100年以上の歴史があるアルゼンチンの名門である。そのリバープレートに留学した元プロサッカー選手がいる。ジュニアユースからマリノス一筋でプレーした田澤浩之。サッカーとの出会い、マリノスのトップチームを経てアルゼンチンで過ごした日々を振り返る。

即答で決めたアルゼンチン行き

サッカーとの出会いは小学1年生のとき。当時の僕は横浜市の新小安に住んでいて、近くにサッカースクールができたんです。そのスクールに友人たちも入るというので、自分も入ったのがサッカーを始めたきっかけです。その日産サッカースクールのコーチだったのが、現役を引退した樋口(靖洋)さんでした(元ヴァンフォーレ甲府監督)。樋口さんは当時から非常に熱かったですね。樋口さんは僕たちがものすごく良いプレーをすると、「しびれるー!」と言うんです(笑)。当時はその「しびれるー!」が聞きたくて、サッカーをやっているようなものでした。それが一番のご褒美でしたし、褒め言葉でもあったのです。
その後はマリノスのジュニアユース、ユースでプレーし、1997年にトップチーム昇格を果たしました。しかしプロ1年目はまったく何もできずに終わります。当時は1年契約でした。シーズンの終わりごろに強化部の方に呼ばれてこう言われたんです。「アルゼンチンのリバープレートというクラブに留学できるルートがあって、そういう話が来ているから行くか?」と。このままマリノスにいても試合に出られるような感触はなかったですし、それ以外に選択肢がないなと思い、ほぼ即答で返事をしました。1年間の猶予をクラブに与えてもらったという感覚でアルゼンチン行きを決めました。

リバープレートで積んだ数々の人生経験

リバープレートではトップから3番目にあたるカテゴリーでプレーしました。リバープレートの下部組織はいろいろな地域から選手を集めていて、当時20歳の僕と同じくらいか、10代の選手たちと一緒に寮生活をしていました。3軍なので技術的なレベルとしては日本の高校生とプロ選手の中間ぐらいでしたが、当たりは強い上に激しくて荒かった。僕は線が細い選手だったので、なかなか当たりの強さでアピールすることはできませんでしたが、インターセプトやインターセプトからのフィードの正確性という強みを生かしてプレーしていました。
当時のトップチームの監督は、マリノスでもプレーしていたラモン・ディアス。スタジアムの敷地内に寮があったため、無料でトップチームの試合を見られる環境でした。当時の所属選手で有名だったのはアイマール。まだ18歳ぐらいで、トップチームの試合に出始めたばかりでしたが、その中でも違いを見せられる選手でした。体は小さいですが、スピードはありますし、当たりも強かったです。すごく頭も良くて、賢いプレーも見せていましたし、周囲の選手とは一線を画すプレーをしていたことが印象に残っています。いつもメインスタンドで観戦していましたが、一度だけゴール裏の中心部に潜入したことがあります。ただ、試合は見られたもんじゃないですね。熱狂的なサポーターでギュウギュウ詰めですし、みんなジャンプしながらガツガツ体が当たる、当たる。南米の熱を体感しました。
言葉の勉強は、日本を発つときに辞書と参考書を1冊だけ買って独学でやりました。「オラ」と「グラシアス」ぐらいしか単語を知りませんでしたし、言葉を覚えるまでは相手が何を言っているか、当然理解はできませんでした。今日はどこで何時からどんな練習をするのか。明日はオフなのか、そういったことも分かりません。午前中の練習を終えた午後は参考書と辞書を見て必死に単語を覚えました。夜は覚えた単語を同じ寮生に話しかけることで通じるか試していましたね。1カ月ぐらい経ったころからでしょうか。なんとなく言っていることが分かるようになったのは。そして3カ月ぐらいで生活をするぶんには困らない程度までスペイン語が理解できるようになりました。聞きたいことは聞けるし、言われたことも分かるぐらいにはなりました。
あとは試合に出場するだけだったんですが、クラブスタッフに確認したら、事務手続きの関係で選手登録が遅れていたのです(苦笑)。ようやく試合に出られるようになって、日曜日に公式戦、翌日の月曜日はオフ、火曜日から土曜日まではトレーニングをするというスケジュールで過ごしていました。印象的だったのはアウェイのバス移動。一番遠方のアウェイは、12時間バスに揺られて移動したこともあります。延々と草原のような、中学生のときに習った『パンパ』をずっとバスが走っていました。僕はずっと寝ていたんですが、移動中は急にチームメートが大合唱を始めることがあって、バスの車内はにぎやかというか、うるさかったですね(苦笑)。
リバープレートでつかんだものですか? 現地ではサッカーの面でも私生活の面でも右も左も分からない環境でスタートしました。新しい環境に行ったり、何か新しいことを始めるときに、できるかどうかは分からないけど、とりあえず積極的にはやってみようという姿勢が自然と身に付いたと思います。我慢強くもなったかもしれません。現地では最初の半年は寮生活。残りの半年は一人暮らしにも挑戦しました。
 

現役引退はベガルタ仙台で

アルゼンチンでの生活にもだいぶ慣れましたし、可能ならばもう1年いたかったのですが、留学の規定の1年間を終えたので、翌年にはマリノスに戻ることになりました。でも結局、マリノスに戻っても試合には出られずに契約満了になりました。シーズンが終わりにさしかかったころに、マリノスの強化部から「マリノスとの契約はこのままでは難しい。仙台からオファーがある」と言われました。僕はそのときまだ21歳でサッカーも続けたかったですし、プロサッカー選手という形で続けられるのであればぜひ、と2000年にベガルタ仙台へ移籍しました。
当時の監督は清水秀彦さん。元日産の選手で戦術眼に長けていた尊敬できる監督でした。仙台1年目はJ2で28試合に出場できました。ポジションは右サイドバックで、最終ラインはセンターバックにドゥバイッチ、飯尾和也さん(元V川崎、松本など)、左サイドバックが賀谷英司さん(元鹿島)でした。仙台で最も記憶に残っているシーンは、プロ生活で唯一のゴールを決めた試合です。2000年5月14日(J2第12節、3-2で勝利)、仙台スタジアムでの湘南ベルマーレ戦でした。僕がペナルティーエリアの外からミドルシュートを打ったら、相手の頭をかすめて角度が変わってシュートが決まりました。初ゴールの興奮はボンヤリとしか覚えていないんですが、逆転勝利につながるゴールだったのでとてもうれしかったですね。
ただ次のシーズンは試合に出られずに、2001シーズンで仙台とも契約満了になりました。20代前半で体も動くし、サッカーをまだまだ続けたいという思いはありましたが、現実にはプロとしてやっていける環境はありませんでした。プロサッカー選手を続けたいけど、やれないかもしれないという気持ちの折り合いをつけることが難しかったのですが、もう割り切るしかないと現役引退を決断しました。
 

不動産業を極めること

いまは総合商社の関連会社で、分譲マンションの管理業務を主とした不動産業に従事しています。分譲マンションの管理業務を言葉にすることは難しいのですが、マンションの清掃業者の手配・派遣や10年に一度の大規模修繕、管理費の出納業務、マンションの住民による管理組合の理事会を運営・サポートする仕事などをしています。管理組合の理事会は月に1回開催されており、住民からのリクエストを集約する理事会の運営補助もしています。この仕事で達成感を覚えるときは、1年単位で管理組合の理事長が代わっていく中で、交代する理事長の方から終わりごろに「1年間担当してくれてありがとう」「田澤さんに担当していただいて良かったです」とお礼を言われるときですね。
不動産業界に入って15年近くになりますし、もうすぐサッカーをやっていた年数と同じくらい時間が経つところまで来ています。不動産業界は広くて深い業界で、まだまだ極められていないことが多いですが、知識をもっと蓄えながら成長して会社にとって欠かせない人材になっていきたいと思っています。サッカーの世界からは離れましたが、プロという立場は変わらないですから。
 

田澤 浩之が選んだベスト11

ベストイレブン

ベストイレブン選出のポイントは、所属したマリノスとリバープレートの中から好きな選手で選びました。残念ながら仙台からは入りませんでした。GKは(川口)能活さん。サッカー選手としての器を自分の努力でどんどん大きくした選手です。センターバックのデミチェリスは寮で一緒だった選手です。左サイドバックは(三浦)淳寛さん。ドリブルのリズムが独特で紅白戦で対戦したときはイヤな選手でした。右サイドバックは悩んだのですが、個人的に好きだった永山さんを選びました。サッカーに真面目で努力を惜しまず、人間的にも尊敬できる方でした。ボランチはギージェとマスチェラーノ。ギージェはリバープレートの2軍にいた選手でものすごくうまかったですし、ボランチで特に目を引いた選手です。マスチェラーノは個人的にブラジルワールドカップのMVPだと思っています。
2列目はトップ下にジュニアユースの同期である中村俊輔。右サイドハーフはアイマール。左サイドハーフはマリノスへの貢献度が非常に高いビスコンティ。当時の左サイドバックだった鈴木正治さんとのコンビネーションは強烈でした。1トップは先日のリベルタドーレスカップの決勝にも出場していたフェルナンド・カベナギ。リバープレートの下部組織出身で僕がいたころはまだ15歳くらいでしたね。そして最後に挙げるのは、このベストイレブンの中でも一番衝撃を受けた選手、松田直樹さんです。すべてのプレーにおいて、サッカー選手としての器がとんでもなく大きい選手でした。僕は監督として、このメンバーと一緒に戦ってみたいです。
 
フォーメーション:4-2-3-1
監督:田澤浩之
FW:フェルナンド・カベナギ
MF:ギージェ/マスチェラーノ/ビスコンティ/中村俊輔/アイマール
DF:三浦淳寛/松田直樹/デミチェリス/永山邦夫
GK:川口能活
 

田澤 浩之 プロフィール

田澤 浩之(タザワ ヒロユキ)

田澤 浩之プロフィール

1978年4月29日生まれ、37歳。神奈川県出身。横浜マリノスジュニアユース→横浜マリノスユース→横浜マリノス→リバープレート→横浜F・マリノス→ベガルタ仙台。危機察知能力を生かしたインターセプトや正確なフィードが持ち味のDF。2001シーズン限りで現役を引退。現在は不動産業に従事している。
 

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