サッカーを愛して止まないあの人の ゆめのはなし

「キャプテン翼スタジアム」。キャプテン翼の原作者である高橋陽一氏の想いを具現化したスポーツ施設である。横浜桜木町の地に誕生したこの施設は現在、東京北、横浜元町、新大阪、天王寺と都市部を中心にサッカー/フットサルプレーヤーのプレー機会を増やすべく、今日も真摯に運営を続けている。
この施設の企画から設立、運営までを手掛けた人物がいる。小学校入学前からサッカーを始め、キャプテン翼スタジアム支配人としてサッカー/フットサルの普及活動している田尻美寧貴。プロを夢見てブラジルにも渡った彼のサッカー人生とは。

母親の釜本選手好きが高じて、なかば無理やりはじめたサッカー

74年2月生まれ、今年で42歳になります。実家が西が丘サッカー場の側で、4歳で西が丘サッカー場のサブグランドで練習するサッカークラブに2個上の兄と一緒に入団しました。母親の釜本選手好きが高じて、野球ではなくサッカー(笑)。小学生以上が対象のチームだったのに、母が無理に交渉して入ったこともあって、最初はもう大嫌いで…。しかも、そのチームは、当時のサッカーブームもあって野球チームから鞍替えしたチームだったんです(笑)。うさぎ跳びとか野球式のトレーニングで、ケツバットもありました(笑)。最初の頃は、端でいつも砂の山をつくっていて、ボールを蹴るのはこの山にボールが来た時に跳ね返すためだけ。そんな感じだったので最初は大嫌いだったんですが、小学校に入るとサッカーができると人気が出るという現象が起きまして、それをバネにのめり込み、そこからはすっかりサッカー好きの小学生になりました。
所属していたチームは、僕らが高学年の頃には11人揃わなくて試合に出られないこともありました。そのままサッカーのキャリアをステップアップしていく感覚を持てるほどのチームでもなかったのに、高校サッカーをビデオに撮ってはシュートシーンをスローで何度もイメージトレーニングすることをしていたので、高校選手権に出たいという気持ちがとても強かった。父の出身校でもあり、地元の強豪でもあった帝京高校に行きたいと思いながら、小中と過ごしていました。

井の中の蛙だった小学校時代は、一番サッカーが上手いと思っていた

中学1年の時、身長が130cmあるかないかだったんですね。それでも井の中の蛙だった小学校時代は、一番サッカーが上手いと思っていたんですが、天狗なまま中学校に入ったら、体格からしてまったく違う中学1年と3年は子どもと大人みたいなものでした。上手い下手の問題じゃなかった。そもそもサッカーブームの時期で、1学年にサッカー部員が30人以上。3学年合計で100人くらいいました。競争も激しくて、1年時は体も子どもだったので、試合に出るというより合宿でご飯を残さないように頑張るとか、そういう感じ。体の大きい同級生に「食ってくれ」とかやったりしてました(笑)。2年生になって体が大きくなってきたらちょっとずつ試合に出られるようになりました。「高校は帝京に行きたい」と思いつつ、今の中学校のレベルの学校で一番にもなれていないのに…という思いもあって、3年生になった時には、もうエスカレーターで高校に上がるための勉強を頑張らなきゃいけない状況になっていました。結果的には紆余曲折あって、普通に中学受験で立教中学、高校、さらには大学まで立教に通いました。だからサッカーはどの年代も強豪とは言えない学校でしたね…
高校時代はそれほど結果が残せたわけではありませんでした。それでも、将来Jリーグの選手になる当時の有名選手たちと一緒に練習会に参加する機会がもらえて、埼玉県の国体選抜の最終候補にまで残りました。体育推薦で強い大学に行ったり、そのまま実業団に入ったりする武南や浦和勢の選手たちと近いレベルでできたという自信もできて、「もしかしたらできるんじゃないか」という感触を少しだけ感じました。そんな時に人づてで、開幕直前のとあるJリーグのチームのテストを受ける機会をもらったんです。そうしたら、練習生としてこのまま粘っていけば昇格できるかもしれない、という感触があったんです。しかし「Jリーグのチームは、大学1年のリーグ戦が終わってから挑戦すればいいだろう」と、そのタイミングでのチャレンジは諦めてしまいました。その後Jリーグが大ブームとなり、テストすら受けることもできなくなり、プロになるハードルがとても高くなってしまいました。
 

大学2年と3年の時に、プロになるべくブラジルに留学

実は当時、大学を選びJリーグのチームにチャレンジしなかったことを結構引きずっていました…。それで、大学2年と3年の時に、プロに挑戦すべくブラジルにサッカー留学したんです。留学生を受け入れている機関に行って練習させてもらい、実力に応じて指導者の人がテスト生として「ここに練習に行ってみろ」と道筋をつくってくれる。それで何人かプロになった選手もいたと思います。大学のサッカー部のリーグ戦も戦いたくて、休学をせず大学2年の間に何ヶ月かずつリーグ戦の合間に行っていました。1回はリーグ戦が終わってすぐ、10月ぐらいから数ヶ月ぐらい、帰ってきて期末テストを受けて、3年生の時は春先から秋のリーグ戦直前まで。いろいろと見越して授業の単位は1年生の時からほとんど取れるだけ取っていたので、2年生の時点で単位はほとんど取得していました。実は高校の時からブラジル行きは少し意識してました。ちょっとわざとらしい話になってしまいますが、これは『キャプテン翼』の影響なんです。ブラジルに翼君が行ったというのは昔から気にしていて、ブラジル留学というのはずっと視野に入れていました。僕のブラジルサッカーのイメージは翼君と三浦知良さん。僕らみたいに強豪校でない学校からプロを目指す人間は逆に海外でプロになるくらいの実績がないと難しいんです。中澤佑二選手はそういう意味で星ですね。彼は強豪とは言えない高校を出て向こうでプロになってからJリーグに入った。ブラジル留学そのものが、日本サッカーの中でプロとして活躍していくうえでどのくらい役立つものかというと、確率で言えば王道の強豪校の高校や大学、Jリーグの下部組織からの方がスムーズだと思います。ただそもそも王道のラインに乗れていない人からすると、ブラジルのような海外の道は残された可能性だったのです。手応えというか感触もなくもなかった。大学のリーグ戦のために帰ってきて、その時も実力が上がっていることは実感していましたし、東京都の大学選抜にも選ばれました。ブラジルにはいろいろな留学生がいました。裕福な家の子が高校を出てやることがないので軽い気持ちで来ている人もいれば、変な地域に送り込まれて身ぐるみ剥がされた人もいたようだし、ギャングみたいになっちゃう人もいたそうです。もちろんプロを夢見てみんな毎日一生懸命練習していましたが。小学校を卒業してブラジルに飛び込んできて地元ブラジルの中学校に通いながらサッカーをし、高校から日本に帰ってプロとして成功した選手が、現在京都サンガにいる山瀬功治選手です。彼は同じ留学先にいた日本人のひとりでした。滞在中は一緒に生活していましたが、当時中学生で体の小さい彼が、一番サッカーが上手でしたね。
 

親の事業がうまくいかなくなり人生が一変しました。

大学3年生のリーグ戦終了後、ブラジルにもう1回戻る予定だったんですが、親が事業に失敗して人生が変わってしまいました。親の名誉のために言いますが、事業はうまくいっていたのですが悪い人たちに騙されての倒産でした。一人暮らしをはじめて、生活費を稼がなくてはいけなくなり、実業団への可能性も怪我でなくなり、普通に大企業のサラリーマンに。4年半ぐらい務め、その後サッカーのイベントやウェブをつくるベンチャー企業に入ったんです。その後転職することになるフロムワンが企画していたフットサル全国大会の運営をする会社でした。その大会の運営がうまくできたこともあって、そのままフロムワンに「おいでよ」と。実は、会社に入って2年目ぐらいの時にプロテストを受けに行ったんですよ。仕事は忙しかったけど、怪我も治り、深夜にトレーニングしてコンディションも上がってきていました。結果的にはダメだったんですが、それですっきり諦めがついた。選手じゃなくてもサッカーに関わろうという心の整理ができました。サッカーありきで生きてきて、とてもたくさんのことや仲間を得ることができました。無理やりでしたけど、早い段階からサッカーに気づかせてくれた親にはとても感謝していますし、サッカーというとても良いスポーツをこれからもみんなに知らせてあげたいな、という気持ちに自然となっています。
 

日常的にボールに蹴れるところをつくってあげなくちゃ

キャプテン翼スタジアムとして、関東は東京北と横浜元町、関西は新大阪と天王寺と、4店舗のフットサルコートを運営しています。元々、以前勤務していた会社でフットサル大会の企画運営していたのは、ボールを蹴る機会や環境をプレーヤーに対して増やしてあげたいという思いからでした。でも20代の頃は施設を持つというのはおそれ多かった。それでスポンサーに協賛していただき、大会を開催していました。でも、「いや待てよ」と。特定の日曜日の大会だけじゃなく、日常的にボールを蹴れるところをつくったほうがもっとたくさんのプレー機会をつくれるんじゃないかと思うようになったんです。大会は施設の中でも当然できる。じゃあ、フロムワンでコートをつくるためにはどうすればいいかな、と考えていた時、フットサルを一緒に楽しむ関係にあった『キャプテン翼』の作者、高橋陽一先生より、実は『キャプテン翼』を具現化したような施設をつくることにご興味があると聞き、協力をお願いしました。「一緒にできることは協力します」と言っていただき、キャプテン翼スタジアムができたんです。
 

サッカー人口を保っていく上でのアイテムとして

競技的視点でいけば、フットサルを真剣にやっている人の視点に立ってみると、サッカーとは全く違うスポーツなんですよね。サッカーの延長みたいな感じで言うと失礼になりますし、逆にサッカーの延長では絶対に通用しないスポーツだというのは、自分の競技者目線としてもあります。ですがエンジョイプレー的な視点で言うと、同じフットボールの中のジャンル。ボールを蹴って楽しむスポーツという観点で言えば、レクリエーションの領域に入ってくる。ほとんどサッカーに近しい感じがありつつ、サッカーほど広くないから長い距離を走らなくていいし、例えば女の子やオジさんが点を取ったら2点だよとか、女の子に接触したら瞬間PKだよというようなルールで保護してあげれば、結構公平に楽しむ場が用意できます。僕が用意したい環境は後者の方なんですよね。サッカーを全くやったことがなかったけれど、フットサルからボールを蹴る楽しみを知ったり、個人競技の経験しかない人にチームスポーツとしての楽しみを伝えたり、みんなで蹴った後の飲み会が一番楽しいよねとか(笑)。ビールを飲むために汗をかきにくる人もいますがそれでも良いと思うんです。
Fリーグが始まってもうすぐ10年になりますが、フットサルという競技自体の成熟がどこにいくのか。競技の世界で成り立たせるために、今チームは頑張ってやっているとはいえ、なかなか成り立たせるのが難しい現状。何人の選手がプロで飯が食えているかといえば、そんなにいない気がします。もちろんフットサルやサッカーの指導者として給料をもらいながら、フットサル選手を頑張っている人は多いと思うんですけれど。フットサルを競技として推進するか、レクリエーションの延長でいいのかに関してはまだ見えない部分があるかなと。ただ、サッカー人口を保ち、裾野を広げていくうえでのアイテムとして、フットサル施設やイベントというのはとても重要だと考えていて、まずそれを正しい場所に正しい形でトレースしていくというのをやっていきたいと思います。
 

コート名にもこだわりがあります。

キャプテン翼スタジアムには、コート名に原作の登場人物の名前がついています。横浜桜木町で1番最初につくった施設(契約期間満了につき閉店)はコートが3面ありました。「先生、コート名はどうしましょう。まずは翼コートですよね。あとの2つはどうしましょう?」と相談したところ、先生は迷わず「あとは岬と若林でしょう」と。迷いもなくその2人の名前が出てきたのは興味深いエピソードでしたね。その後、新大阪で3面だったコートを1面増設し4面目のコートをつくることになったとき、4面目のコート名をどうしようと相談したら、今度は先生がニヤッとしながら「石崎コートにしますか」と。「南葛色が強すぎませんか(笑)」と話した結果、「じゃあ、日向にしましょう」と日向コートが完成しました。そのやりとりがあったので、5面目を増設した時は、こちらから「石崎コートにしますね!」と伝えました(笑)。6面目のコートをつくれることになったときの名前は決まってるのですが、それは内緒です。
 

巣立っていくこと

2014年の秋からキャプテン翼サッカースクールを立ち上げ、そのスクールマスターを兼任してます。現在は横浜元町校と天王寺校を運営していますが、このなかからプロで活躍する選手が出てきたり、もしかしたら日本を代表するような選手が育ってくれたら嬉しいな、と思っています。そしてなによりもサッカーという素晴らしいスポーツと出会い、楽しみ、続けていってくれる子どもたちとたくさんかかわっていきたいと願ってます。
 

田尻 美寧貴が選んだベスト11

ベストイレブン

フォーメーション:3-4-3
監督:田嶋幸三
 
FW:大空翼/三浦知良/京谷和幸
MF:名波浩/ロベルト本郷/岬太郎/ロベルト・バッジョ
DF:ロベルト・カルロス/石崎了/カフー
GK:若林源三

田尻 美寧貴 プロフィール

田尻 美寧貴(タジリ ミネタカ)

田尻 美寧貴プロフィール

1974年2月生まれ、立教大学社会学部卒業。大学時代にブラジルへサッカー留学。卒業後大手金融系企業に4年半勤務し、フットサルイベントを手掛ける(株)クラブハウスへ転職。フットサル全国大会の運営を評価され、2002年に(株)フロムワンに転職。各種媒体営業や、各種スポーツイベントの企画・運営などを手がける。 2010年「キャプテン翼スタジアム」プロジェクトを企画し、立ち上げ後は初代支配人として運営を統括。現在は同社アドバイザーを務めつつ、(株)タディを2016年2月に設立。同社代表取締役を務める。キャプテン翼スタジアム天王寺店の運営をベースに、これからもスポーツ、サッカー、フットサルにかかわるあらゆる事業に携わっていく。

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