サッカーを愛して止まないあの人の ゆめのはなし

高校までは名門・暁星高校のサッカープレーヤーだった星翔太。大学でフットサルに出会うと、人生の転機が訪れる。在学中に日本代表に選出、Fリーグでのプレーを経てスペイン1部でプレーするまでに。現在はかつて所属していた『バルドラール浦安』に復帰し、キャプテンを務める。「いずれはFリーグの冠スポンサーになってFリーグの仕組みを変えていきたい」。野心家・星翔太のヒューマンヒストリー。

器用貧乏を乗り越えて

僕がサッカーを始めたのは、Jリーグが開幕した1993年ころ。読売ヴェルディ(現・東京ヴェルディ)や横浜マリノス(現・横浜F・マリノス)が全盛期のころ、実際にスタジアムでJリーグを観戦して「サッカーはすごいな」と子供ながらに憧れてサッカーを始めました。当時は、もうなくなってしまった地元・亀有のMTC(みのわ体育クラブ)というチームでプレーしました。当時の僕はめちゃくちゃ太っていたけど、足は速い、イマドキで言うところの“動けるデブ”でした。小学校1、2年生のころはポジションなんてあってないようなものでしたが、3年生の時にはDFをやっていた記憶があります。結局、4年生になって暁星小学校の部活に入るまではMTCでプレーしました。
小学生ではGK以外、いろいろなポジションでプレーしました。小4はFW、小5はDF、小6はMF……といったように。そして中学に入った時は身長がわずかに147cmしかなく、いろいろなポジションはできるけど、別に何か特化しているわけではない、“器用貧乏”な選手でした。でも、チームメートにも恵まれた中学生時代は、3年生の時に全国大会で優勝することができました。
そのあとは暁星高校に進学しました。暁星は中学校と高校が同じ敷地内にあるので、高校への進学が決まった時点から、高校の練習に参加できる環境にありました。最初は走るトレーニングが大変でした。ちょうど僕が高1になる年から急に走りの練習が厳しくなり始めて、走るトレーニングを重視する方針になったため、全国優勝をした僕たちの代は約20人が高校のサッカー部に入部しましたが、一気に辞めてしまい、結局6人しか残りませんでした。
実は僕もその時点で練習がキツかったので、辞めようとしていました。2週間くらいずっと高熱が続いて学校も休むぐらい倒れてしまいましたし、当時はかなり精神的に参っていました。しかも、学校に行けば部活の先生と体育の先生が一緒でしたので、体育の授業があるたびに「お前はなんで部活に来ないんだ?」、「いやもう僕、辞めます」というやり取りを繰り返して、堂々巡りになっていました。
そんな様子を見かねたのか、高3の先輩から言われた「オレたちが引退する1年間だけ一緒にやってみないか?」という一言に、僕は部活を辞めることを思い留まりました。たしかに走りのトレーニングはキツかったですが、先輩のありがたい言葉で「もう少しやってみよう」と続けた結果、3年間、部活を続けることができました。
高校3年間での経験が今に生きているなと思うことがあります。たしかに理不尽だったなと思うこともありましたし、「器用貧乏」と言われることに少なからず傷付く部分はありましたが、どんなに人に何を言われようとも、自分が芯を通して行動すれば、必ず良い方向に向かうと思っていました。精神的にも強くなりましたね。あとは高1のときに先輩に助けてもらったことで、自分が逆に高3で先輩の立場になったときに、後輩の立場がよく分かりましたし、自分の発言に責任を持って、自分が率先して行動をすることで人が付いてくるということを先輩から学びました。
理不尽なこともすべては自分がどう捉えるか次第ですし、その理不尽なことを乗り越えたからこそ、今の自分があるんです。ほかのみんなと差が付いたのは、精神的にも強くなれたことが大きかったと思っています。
 

僕にぴったりだったフットサル

暁星高校を卒業したあとは、早稲田大学に一般入試で進学しました。実は、僕は小学校4年生のころから母方の祖母が住んでいる山梨から暁星高校まで通っていました。朝練に間に合わせるために、朝の4時半に起きて、5時10分の始発に乗って、6時55分に飯田橋駅に着くので、そこから毎日走って暁星まで通う日々を続けました。
山梨に住むことになったきっかけが母方の祖父の病死で、祖母を一人にはできないと家族みんなで山梨に引っ越しました。祖父の死因が病気でしたので、僕は医者になりたいと、医者とプロサッカー選手の両方を目指していました。でも医学部に入ることは学費の問題で難しく、「将来自分は何になりたいんだろう?」と考えた時に、スポーツトレーナーの仕事にも関心がありましたので、スポーツ医学のある学部を目指そうと、早稲田大学の進学を希望しました。それからは入試までの1カ月間、医学部に合格するために入るような塾にも親に通わせてもらって、必死に勉強した結果、センター試験で早稲田大学に進学できました。
早稲田大学ではいろいろな競技をプレーしましたね。カポエラ(格闘技と音楽、ダンスの要素が合わさったブラジルの文化的競技)に始まり、格闘技、テニス……。でも、どれもしっくりこないなと思っていた時に、ちょうど暁星の先輩から「フットサルをやっているから来たら?」と誘われて、フットサルを始めたらハマってしまいました。
サッカーにおける僕の最後のポジションは、DFや攻撃的なボランチ。ディフェンスをした上で、点も獲らなくてはならないフットサルは僕にピッタリで、しかもボールに触る時間も長かったので、フットサルにハマるまで多くの時間はかかりませんでした。
フットサルをプレーしていたチーム名は、『森のくまさん』。北原亘選手や須賀雄大選手、稲葉洸太郎選手など、暁星の先輩たちが“強くなさそうな強いチーム”というコンセプトの下に立ち上げたチームです。当時は民間の団体が主催している学生リーグに参戦していました。ただ森のくまさんは、優勝すれば賞金や賞品がもらえる民間の大会に出場して優勝してしまう“大会荒らし”のようなチームでした(苦笑)。僕は森のくまさんに所属する傍ら、『稲穂キッカーズ』というサッカーサークルにも入っていました。
その稲穂キッカーズには大学2年生まで在籍して、フットサルも並行しながらプレーしていました。そして大学2年の時、サークルの先輩にフットサルリーグの府中アスレチックのセレクションに誘われたのですが、なぜかセレクション当日に先輩は来ませんでした(笑)。でも、やっぱり受けるからには合格したいので、精いっぱいセレクションでプレーしたら合格しました。とはいえ、自宅の亀有から府中までは約2時間かかります。終電の時間も厳しかったですし、さすがに続けられないなと辞めることを検討している時に、フウガドールすみだの前身にあたる『BOTSWANA(ボツワナ)』が関東リーグに上がるという話を聞いたので代表者に連絡を取ったところ、「ウチに来ていいよ」との返答でした。結局、稲穂キッカーズの試合の日にBOTSWANAの公式戦があるため、両立することが困難になったんですが、僕は迷わずフットサルを選びました。結局、サッカーサークルは3年の時に辞めました。
早稲田大学の同期にはそうそうたるメンバーがいました。横浜FMの兵藤(慎剛)や山本脩斗(鹿島アントラーズ)、鈴木修人(引退)らスーパーな選手がいて、筑波大学には平山相太(FC東京)がいました。早稲田では下の代に渡邉千真(ヴィッセル神戸)も入ってくるなど、どんどん良い選手たちが集まってきました。どの競技にもトップクラスの選手がいて、ラグビーの五郎丸も同級生です。アイツ、入学した当時から学校にいなかったですからね。話を聞くと、「五郎丸は代表で南アフリカへ遠征に行っている」と。「マジか!」みたいな(笑)。
 

バルドラール浦安は、人間的な魅力があるチーム

大学在学中の20歳の時に日本代表に招集されたこともあって、真剣にフットサルを続けていこうと決心をしてから、22歳で大学を卒業するところを、1年間卒業を待ってブラジルに行きました。ブラジルでは全然自分のプレーが通用しないことが分かりましたし、最終的には「契約をしても良い」と練習参加したブラジルのチームに言っていただきましたが、大学の卒論もあったので、契約はすることなく帰国しました。今の年齢になればもはや学歴は関係ないのですが、僕の中で大学在学中は日本という国において、学歴は絶対に大事だと思っていましたので、きちんと卒業したかったんです。無事大学を卒業した次の年・2009年にバルドラール浦安へ加入しました。完全なプロ生活がスタートしたのはそれからです。
ただ、浦安では1シーズン(2009/10シーズン)だけプレーをして、そのあとはスペインへ渡りました。その時のスペイン移籍は、スペイン人の代表監督(ミゲル・ロドリゴ)に刺激を受けたことと、大学在学中にブラジルへ行ったことも一つのきっかけとなりました。「世界で戦いたい」という夢をかなえるために、プロ契約でスペイン1部のグアダラハラというスペインのチームに加入したのです。
正直、スペインでプレーしていくにあたって、不安はありましたが、考え方を変えれば馴染みやすい環境だなと思いました。代表ではスペイン人監督の下でプレーしていましたし、ブラジルでの海外経験も生かせると。代表でチームメイトだった高橋健介選手と同部屋の時は、スペインでのプレー経験がある健介さんから、スペインのフットサルリーグはどんな様子か話を聞いていました。また、健介さんと一緒に代表でプレーすることで、「なんだ、この違いは?」とプレー面でも日本とスペインの違いを気付かせてもらったことで、いざスペインに行っても、驚くことはなく、新しい環境に溶け込むことができました。
スペインでは日本と戦術面で違いがあることや、スピード感など、体感してみないと分からないことも多く、言葉にすると伝わりにくいのですが、スペインはボールのないところでの動きがものすごくうまいという感覚を味わいました。日本人はオン・ザ・ボールで勝負をする傾向が強いですが、スペイン人はボールのないところでの動きでどう勝負するか、駆け引きをしており、スペインではフットサルが騙し合いのスポーツであることを学びました。
2シーズン、スペインでプレーしたあとは、一度カタールのクラブ(アル・ラーヤンSC)を経由して2012年6月に再び浦安へ戻ってきました。塩谷(竜生)社長が常に僕の存在を気にかけてくれていたことと、健介さんも浦安に戻っていましたので、フットサルを続けるならばスペインの流れをくんでいるチームが良いなと、迷わず浦安復帰を決めました。
僕にとって、バルドラール浦安は、人間的な魅力があるチームだなと思っています。パスワークで魅せるチームですし、浦安は自ら発信することや周りを惹き付ける能力に長けた選手たちがプレーしているチームであることも魅力的に映りました。今後、クラブとしてはアジアNo.1クラブになりたいですね。そして将来的にはクラブとしての存在を超えた、例えば国と国をつなぐクラブとなって、あらゆる意味で浦安をアジアNo.1クラブにしたいと思っています。
僕個人としては、昔は世界有数の選手になりたいと思っていましたが、いろいろな見方がありますし、さまざまなスタイルもありますから、世界一の選手を決めることは簡単にはできません。ですから、今はクラブの方向性と一緒で、“一選手を超えた選手でありたい”と思っています。星翔太は、フットサルのアイコン的選手であり、フットサルに限らずチームと企業をつなぐ、あるいはフットサルと社会をつなぐ、もっと大きなことを言えば、日本にスポーツ文化を根付かせる選手の一人になりたいという夢があります。
まだ個人としての夢はたくさんありますが、僕はフットサルプレーヤーでもあるので、いずれはFリーグの冠スポンサーになってFリーグの仕組みを変えていきたいです。そして、いろいろなスポーツの垣根を取り除き、さまざまなスポーツをつなげて、マイナースポーツの集合体で一つのマイナースポーツという競技を作ることが大きな夢の一つです。その過程にFリーグのスポンサーになるという夢があります。「いつまで選手を続けるんだ」という話になりますが、まだまだ現役にはこだわっていきますよ。
ただ、残念ながら今季のプレシーズンのトレーニング中に負傷し、診断結果は全治約6カ月。いまはチームから離脱しています。1日も早い復帰を目指して、厳しいリハビリにも取り組む所存ですし、しばらくは試合に出られませんが、僕は浦安のためにできることをやっていきます。ぜひチームを応援しながら、星翔太の復活を楽しみにしていてください。
 

星 翔太が選んだベスト11

憧れた選手ベストイレブン

ベストイレブン選出のこだわりポイントは、「星翔太が憧れた選手ベストイレブン」。一度でいいから、一緒にプレーしてみたかった選手です。デル・ピエロ選手のポジショニングがいびつであるのは、左45度の“デル・ピエロ・ゾーン”を確保するためです(笑)。
 
GK/ファン・デル・サール(オランダ)
DF/サムエル(アルゼンチン)、ネスタ(イタリア)、テュラム(フランス)
MF/稲本潤一(日本/現・コンサドーレ札幌)、ヴィエラ(フランス)、ボバン(クロアチア)、リバウド(ブラジル)、リケルメ(アルゼンチン)
FW/デル・ピエロ(イタリア)、ベルカンプ(オランダ)
 

星 翔太 プロフィール

星 翔太(ホシ ショウタ)

星 翔太プロフィール

1985年11月17日生まれ、30歳。東京都出身。178cm / 76kg。フットサルプレーヤー/PIVO / ALA。Fリーグ・バルドラール浦安所属。暁星中学・高校を経て、早稲田大学に進学。在学中にサッカーからフットサルに転向し、現在に至る。スペイン1部リーグで2シーズンプレー経験があり、2012年6月から浦安に復帰。2シーズン連続でチームキャプテンに指名された。フットサル日本代表選手。
 

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