サッカーを愛して止まないあの人の ゆめのはなし

会社員として続けていたサッカーの世界が大きく広がったのは1993年のJリーグ開幕がきっかけだった。浦和レッズのエースFWとして10年間戦い続け、『バンディエラ』と称されたクラブのレジェンドは今、新たなフィールドで挑戦を始めている。現役時代の苦悩、プロサッカー選手であることの意義、そして、その先の夢……。福田正博が思い描く、己とサッカーとの関わりとは。

現役を引退してからの活動

10歳でサッカーを始めてから、2002年、36歳の時に引退するまで、26年間はサッカーのことだけを考えて生活してきました。サッカーが上手くなりたい、ワールドカップに出たいという夢だけを描き、すべての情熱を傾けてサッカーと向き合って生きてきましたから、いざ現役を引退したときに新しい目標を見つけるのが難しかったです。ただ、それでも生活はしなければなりませんから、サッカーを通して仕事ができるメディアというフィールドを選びました。
また、メディアの仕事をしている間に指導者のライセンスも取得しました。日本国内ではトップランクに位置するS級ライセンスです。選手時代は自分のことしか考えてきませんでしたが、メディア、そして指導者の仕事に携わることで、一歩引いた客観的な視点で物事を捉えられるのではないかと思ったからです。
現役時代の僕は、メディアに厳しい態度で接していました。でも、引退をしてメディアの仕事に従事した時に、どんな世界であっても、そこに身を置かなければ理解できないことがあるんだなと痛感しました。公の場で言えないこともあり、難しいなと思うことも多々あって、その葛藤の中で正解を見出さなければなりません。メディアも大変な世界ですよ。
今は、バランスの取れた活動ができていると思っています。サッカーの専門分野を深く考察する仕事があり、一般の方々に向けて競技の面白さを語れる仕事もあり、サッカースクールでグラスルーツと称される子どもたちに指導できる機会もあります。サッカーの魅力を様々な側面から伝えられる。これは現役を引退してからの活動で人脈を築き、フィールドを広げられたことの成果なのかなと思っています。
今後やりたいこととして、メディアやスクールの活動を通して、サッカーというスポーツを日本の文化のひとつとして定着させたいという、理想、夢はあります。でも正直にいうと、僕の場合は現役時代に明確な夢、目標があり過ぎました。サッカー選手時代以上の達成感を感じることも、夢を抱くこともできないと、今は思います。ただ、これからサッカークラブの監督としてチームを指揮した時に、それと同じような感情を持てるのかもしれませんね。
 

人生のターニングポイント

人生のターニングポイントはプロサッカー選手になったこと。これに尽きます。僕がプロになった頃、日本ではまだ、サッカーがマイナーなスポーツでした。1991年に日本サッカー協会がJリーグの設立を発表し、93年の開幕を目指すと明言した時にも懐疑的でした。日本でプロサッカーが根付くのか。かつてのアメリカのメジャーサッカーのように失敗して消滅してしまうのではないか。終身雇用の立場で三菱重工の社員になった僕からすれば、プロの世界はリスクが高すぎるとも感じました。それでも僕は25歳でプロ契約を結びました。これは僕の人生の中で最も大きな決断となりました。ちなみに会社を辞めるときに上司から「なんで辞めるんだ?そんな未来の見えないものに飛び込んでいって、大丈夫なのか?」と心配されましたよ(笑)。当時の日本サッカー界を取り巻く環境は、そのくらい厳しく、先を見通せない不安定さがあったのです。
やがて93年にJリーグが開幕した当時は、国内で一大サッカーブームが沸き起こります。前年に日本代表がダイナスティカップ、アジアカップを制し、そして最後に出場を逃しましたが、アメリカワールドカップの予選があり、サッカーという競技に対する関心度が格段に高まったんです。選手たちも綺麗なピッチに立ち、たくさんのサポーターの前でプレーできることの喜びを得ました。今までは新聞の一行記事でしか記されなかったサッカーの試合結果が、一面のトップニュースで報じられる。サッカー界の先輩方、そして僕たちの世代が望んでいた世界が、急に実現してしまったような感覚です。様々な方に注目される中でプレーできる幸せを感じました。
一方で、プロとしてスポットライトを浴びる準備ができていなかったことで、自らに与えられた責任に戸惑いも覚えました。一夜にしてスターのような扱いをされたわけですが、それは自らの力で掴んだものではありません。選手ステータスは、組織が発足し、舞台を与えられた上で社会の空気によってつくり上げられたものでしたが、僕にはその覚悟がまだありませんでした。当時は気持ちを整理できなくてパニックに陥っていたように思います。コンビニへ買い物に行くと、新聞の一面に自分の名前が大きく載っている。外を歩いていると、知らない人に声を掛けられる。それは声援の場合もありますし、そうじゃない場合もあるわけです。街中を普通に歩けない。これには本当に戸惑いました。僕の場合は浦和の選手であると共に日本代表でしたから、一層周囲が苛烈さを増したのかもしれません。
 

かけがえのない恩師との出会い

プロサッカー選手としての自覚を備え、落ち着いてプレーし、生活できるようになったのは95年の時期です。Jリーグ初期の浦和は常に最下位争いをするような弱小チームで、それも僕の心を乱す要因になっていました。特に僕の場合は、日本代表と比べてしまって、毎年のように監督も、選手も入れ替わる浦和に対し、そのギャップに苛立ち、感情を爆発させてばかりいました。そのようなストレスを抱えたままプレーしているわけですから、良いパフォーマンスを発揮できるわけもなく、それによってケガも多くなりました。悪循環ですよね。そんな時、95年にドイツ人のホルガー・オジェック監督が浦和の指揮官に就任して、僕に対してこう言ってくださったんです。
「何でも君ひとりで背負うな。チームの一員として、自らに与えられた役割に邁進してくれればいい」
この言葉で、僕の背中から重荷が外れました。救われた気がしたんです。一選手なのに、クラブの経営を考え、チームを統率し、選手の教育などまでこなそうとしていた自分は、やはり間違っていた。組織の一員としてやるべき仕事をする。オジェック監督からは、選手が担うべき当たり前の責務を再確認させてもらいました。
どんな人も、様々な出会いによって自らが成長できるきっかけを掴むと思うんです。僕の場合は日本代表で出会ったハンス・オフト監督、そしてオジェック監督の存在が大きかったですね。サッカーをプレーしていてとても有意義だと思うのは、様々な文化を育んだ異国の方と交流ができること。例えばオランダ人のオフト監督はアジアでも勝てなかった日本代表を強化して劇的に成績を向上させました。重要なのは成功体験を多く積ませること。そのために監督が仕向けたのは「不向きなことはやらない」ことでした。彼は常に「自分の得意なことをやりなさい」と言い続けていましたが、それは選手個人だけでなく、日本代表というチーム全体にも伝えたかったのだと思います。相手をリスペクトするのは当然ですが、まずは自分自身を評価し、自信を持って対峙する。日本人特有の謙虚さは良い面もありますが、勝負事では障害になることもある。オフト監督は日本人の特性を見抜いていて、あえて「自信を持ち続けろ」というメッセージを送っていたのだと思います。そのオフト監督とは、僕が現役最後のシーズンを過ごした2002年に再び浦和で出会いましたから、その縁も感じました。僕は指導者の方に恵まれていたんだなと。
またオジェック監督には2008シーズンに浦和のコーチとして一緒に仕事をさせて頂く機会を得ました。まあ、オジェック監督が開幕直後に解任されてしまったので、彼と共にチームに居た時間はとても少なかったんですけどね(笑)。その後、僕は2010シーズンまでの3年間、浦和のコーチとして仕事をしましたが、その経験も今に生かされています。様々な役割を担って視野を広げ、成長する。緩やかではありますが、そのような環境を得られたことに感謝しています。
 

浦和で育まれた土壌。サポーターへの思い

現役を引退した時、悔いがなかったというのは嘘になります。もう少しプレーしたかった。あの時こうしておけば良かったなどという後悔はもちろんあります。最後のシーズンはオフト監督の下で多くの試合に出場させてもらいましたから、余計にサッカーを辞めるのが惜しくなりました。ただ、ここで潮時かなと思う側面もありました。自らの立場、チーム状況、周囲の環境などを鑑みて、退くべきかなと、最終的には自らの意思で決断しました。その選択は間違っていなかったと思います。
浦和レッズというクラブだけでプロサッカー人生を送ってきたので、それが現役引退を決める動機になったことも確かです。他のクラブに行って一から出直そうというパワーは、もうありませんでした。高いモチベーションを持って、新たな目標を設定して戦い続けられるのか。それを考えた結果、浦和で終える決断をしたんです。
今の浦和に思うのは、名実共にビッグクラブになってもらいたいということ。浦和は多くのサポーターを有するクラブですが、Jリーグ優勝を遂げたのは2006シーズンの1回しかありません。またAFCアジア・チャンピオンズリーグのタイトルも2007シーズンに1回獲得しただけです。近年は毎年優勝争いを繰り広げていますが、勝ち獲ったのは昨季のYBCルヴァンカップのみ。浦和はJリーグクラブの中で最も収益が多く、しっかりとしたサポーターの支えもあります。だからこそ、タイトル獲得は至上命題だと思うんです。
なぜ、浦和レッズには多くのサポーターがいるのか。その答えを見出すのは難しいですが、埼玉の浦和という地域に、元々サッカーという競技を愛する土壌があったことはひとつの要因かもしれません。他に比べて、浦和だけが突出してなにかのアクションを起こしてきたとも思えません。ただ、浦和という地域から発生したサポーター文化は他とは一線を画するものだった。浦和はサポーターが増えたのではなく、元々そこに居た。そう考えた方が自然なのかもしれません。また、93年のJリーグ開幕時に他のクラブサポーターたちが華やかで明るい要素を応援に取り入れる中、浦和はどちらかというと硬派なスタイルを貫いた。サッカーの母国であるイングランドの風土を踏襲して、それをサポートに落とし込んでいった。それが独自の魅力として内外に発信されたのかもしれませんね。
2003年の引退試合には埼玉スタジアムに5万人ものサポーターが集まってくれました。その時に、あるサポーターから「満員にできなくてすみません」と言われたんです。十分に多かったのに、まだまだ足りないと言って謝ってくれる。浦和のサポーターにはそのような熱い気持ちがあって、僕はそんな彼ら、彼女らの思いを背負ってプレーし続けたのだなと再認識しました。そんな硬派で愚直な雰囲気というのは、僕自身のパーソナリティとも確実に適合していたと思っています。
 

南米代表シャペコエンセとの一戦

さて、浦和レッズは8月15日に『スルガ銀行チャンピオンシップ2017 SAITAMA』でコパ・スダメリカーナ王者のシャペコエンセ(ブラジル)と対戦します。浦和にしてみれば南米の強豪と対戦できる貴重な機会ですし、たいへん栄誉のあることだと思います。
シャペコエンセは昨年の11月28日にコパ・スダメリカーナ決勝第1戦の舞台であるコロンビアのメデジンへ赴くために飛行機で移動する途中で墜落事故に遭い、監督、選手、スタッフを含めて47名の方が亡くなりました。ニュースを聞いたときはとても驚きましたし、監督、選手の中にはJリーグで指揮を執ったり、プレーをしたりした方もいましたから、とても身近な出来事として心が痛みました。シャペコエンセはその悲劇を乗り越え、今は新たなチームでの挑戦を始めています。サッカーは国、言語、文化が異なっても試合を通して心を通わすことができる。お互いに様々な思いを背負って戦うわけですから、今まで以上に意義深いゲームになるでしょう。良い試合を期待したいですね。
 
 
取材協力 浦研プラス「島崎英純+福田正博ウエブマガジン」

福田 正博が選んだベスト11

福田正博が選ぶ歴代浦和レッズベスト11

フォーメーション:4-4-2 監督:ハンス・オフト(元日本代表監督、2002、2003浦和監督)
 
GK
西川周作(日本代表。2014-)
DF
山田暢久(1994-2013)、田中マルクス闘莉王(2004-2009/京都)、ギド・ブッフバルト(1994-1997)、三都主アレサンドロ(2004-2009)
MF
長谷部誠(2002-2007/フランクフルト)、小野伸二(1998-2001、2006-2007/札幌))、ロブソン・ポンテ(2005-2010)、ウーべ・バイン(1994-1997)
FW 
エメルソン(2001-2005)、福田正博(1993-2002)
 
 
GK 西川周作
歴代の浦和のGKはあまり日本代表に選出された選手が多くない中、西川には実績がありますからね。
 
CB ギド・ブッフバルト
ドイツ代表でワールドカップも制した選手で、スケールの違いを感じました。大柄な体格のわりには器用でボール扱いも上手かったですね。
 
CB 田中マルクス闘莉王
攻守に貢献できる珍しいタイプのDFで、相手と駆け引きできるクレバーな選手。何よりすばらしいのは戦う姿勢。絶対に勝つんだという気迫で仲間を牽引していましたね。
 
左SB 三都主・アレサンドロ
三都主しかいません(笑)。
 
右SD 山田暢久
能力の高い選手で、様々なポジションでプレーできる。彼が本気を出したら、ほとんどの選手は敵わない。それは海外の選手も含めてです。ただ、彼が本気を出す機会は恐ろしく少ない(笑)。それも彼のキャラクターのひとつなんですけどね。
 
ボランチ 長谷部誠
高卒で加入してきた当初は「コイツ大丈夫か?」と思いました(笑)。気が弱かったんです。相手にやられたらシュンとしていた。でも才能は評価されていて、2年目にオフト監督からチャンスを与えられて意識改革したんだと思います。今では日本代表のキャプテンも務めていますから、本当に成長した選手だと思います。
 
左MF 小野伸二
伸二は長谷部とは逆で、高校を卒業して浦和に来た時から完成された選手でした。技術もそうですが、フィジカル面も十分プロで通用していた。左右両足を使える選手で、どんなエリアでも適切なプレーができる。それが彼の強みだと思います。
 
右MF ロビー・ポンテ
ロビーがいなければ2006年のリーグ優勝は成し得なかった。それくらい浦和に多大な貢献を果たしたレジェンドです。
 
トップ下 ウーベ・バイン
ドイツ代表にも選出されて、派手さはないですけども確かな技術を備えていました。最初はまったくウーベのパスと合わなかったんです。パスのタイミングが早くて、僕がついて行けなかったです。でも、僕がタイミングを熟知してパスを受けられるようになったら、ピタリとボールを収められて、相手守備陣を出し抜くことができました。でもウーベがいなくなったら、今度は出し手のタイミングが遅すぎて僕の飛び出しがすべてオフサイドになってしまった……。それくらいウーベのパスは正確で、何より速かったと思います。
 
FW 福田正博
僕は入れましょうね(笑)。
 
FW エメルソン
僕が現役を辞めるまでの1年半一緒にプレーしましたが、現役を退こうと決めた要因のひとつにエメの存在があります。それくらい、彼のプレーは強烈でした、皆、彼のスピードを挙げますが、僕はシュートバリエーションの豊富さに驚きました。それを支える技術力の高さ。これは敵わないと素直に思いましたね。
 

福田 正博 プロフィール

福田 正博(フクダ マサヒロ)

福田 正博プロフィール

1966年12月27日生まれ、神奈川県出身。中央大学卒業後、1989年に三菱(現浦和)に入団。1995年に50試合で32ゴールを挙げ、日本人初のJリーグ得点王に輝くなど、Jリーグ通算228試合で93得点。日本代表でも45試合で9ゴールを記録している。2002年に現役を引退。2008年から3年間、浦和でコーチを務めた。現在はサッカー解説者として、各メディアで活動をしている。
 

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