サッカーを愛して止まないあの人の ゆめのはなし

長きにわたり浦和レッズを追いかけ続けている島崎英純は、ファンからの信頼もあついサッカーライターだ。彼は、印刷会社の営業マンから30歳でサッカー専門誌の記者に転職、フリーになったという少し変わったキャリアの持ち主だか、今回は、その道を歩むことになったきっかけから、長くサッカーメディアに携わってきて、今感じていることまで語ってくれた。そこからはサッカーと、そして浦和レッズの魅力も伝わってきた。

きっかけは深夜の校正作業。編集長に誘われて記者へ転身

僕は30歳まで一般企業の会社員として従事し、営業の部署に配属されていました。その会社は印刷業で、僕が受け持つ営業のフィールドは出版社でした。有名なところでは角川書店さんなどです。その仕事上の縁もあって、取引先の編集者や雑誌記者の方々と面識ができて、メディア業界のことを知る機会を得ました。
26歳の時に日本スポーツ企画出版社という出版社の担当営業になりました。その時に僕が担当したのは『週刊サッカーダイジェスト』というサッカー専門誌で、学生時代にサッカーをプレーしていた僕は、自らの職務以上にのめり込んで関わりを持ちました。当時のサッカーダイジェストは週1回の発行で、毎週金曜の最終校了日に編集部員の方々が僕の勤務する印刷会社へ来て作業をします。その仕事が終わるのは毎週夜の23時過ぎになるのですが、印刷所の営業担当である僕は皆さんの作業が終わるのを待たなければなりません。すると当時の編集長が「島崎くんはサッカーに詳しいのだから、一緒に校正をしてよ」と誘うのです。おそらく編集長は僕がサッカー専門誌の仕事に興味を抱いていることを見抜いていたんでしょうね。声を掛けられた僕は二つ返事で引き受けて、喜々として仕上がったばかりの原稿を読み漁っていました。
2001年の夏、すでに僕はサッカーダイジェストの営業担当から外れて別の出版社の営業を任されていたのですが、当時の編集長とはお酒を酌み交わすような仲になっていて、一緒に食事をしていた際に「サッカーダイジェストへ来ない?」と誘われたんです。会社には13年間勤めましたが、自らに営業の才覚がないことを痛感していた僕は、編集長の誘いに天にも昇る気持ちでした。だから、「ぜひ、お願いします」と言って即決したんです。ただ僕が勤めていた会社は一部上場企業で、収入もそれなりに高かったため、勤め先の上司や何人かの同僚からは「なぜ今のステータスを捨ててまで辞めるのか?」と詰問されましたね。それでも、僕にとっては報酬や立場より夢の方が大事だった。結局、この決断が今の僕の立場を形成しているわけですから、人生はわからないものです。
ただ、転職してからは以前との環境の違いにとても戸惑いました。印刷会社に勤務している時は朝の8時半に出社して、業務を終えるのは大体21時過ぎ。徹夜での仕事もありましたし、多くの上司、同僚、そして部下と共に厳しいノルマを課せられて奔走する毎日でした。一方、サッカー専門誌の記者も激務であることは変わりないのですが、出社時間は昼の13時。それも便宜的に決められたもので、実情は各担当記者の仕事内容によって調整できたので、勤務時間がとても不規則になりました。
また、当時の僕はサッカー専門誌の記者への転身を決めたにも関わらず、文章を執筆した経験がほとんどありませんでした。編集、記者未経験の僕を編集長が抜擢してくれたのはギャンブルに近い選択だったのではないかと(笑)。ちなみに当時の正規雇用では面接、筆記テストの末に約300倍の選考を勝ち抜いて記者が採用されていたらしいですから、原稿も提出せずに記者になれた自分は正真正銘の『縁故採用』ですよね。申し訳ない思いしかありません(笑)。
 

いきなり取材現場へ。そして浦和レッズとの出会い

サッカー専門誌の記者になった直後に最も驚いたのは、何の研修もなく、いきなり最前線の現場で取材活動をしたことです。他の出版社ではアプローチが異なるのかもしれませんが、サッカーダイジェストは現場主義で、先輩からのレクチャーはコミュニティでの礼儀作法くらい。もちろん、どんな業種であっても挨拶や立ち居振る舞いは最低限身に付けなければならない必須条件なのですが、他は自らの裁量で取材を任されていました。また原稿、文章については、他の新人記者は事前に添削されるなどしてから雑誌掲載の可否を決められていましたが、僕の場合は入社3日後に大阪出張を命じられ、翌週の発売誌に初めて書いた原稿が載ってしまいました(笑)。でも、僕にとってはこのような放任主義が逆に気を引き締める動機付けになりました。サッカー専門誌では各々Jリーグクラブの担当記者を任命されるのですが、入社直後の僕は浦和レッズという、日本で最もサポーターの数が多いチームを任されることになったからです。
2001年当時の浦和は現在のようにリーグ優勝を争うようなチームではなく、中位、もしくは下位を彷徨うような状況でした。タイトルなどとは無縁で、華やかなスポットライトを浴びることもない。常に不満を抱えたサポーターたちが是々非々の議論を交わしていて、少し殺伐とした空気が流れる環境にありました。そこへ新参者の僕がやってきて、担当記者として偉そうな講釈を垂れるわけですから、各サポーター諸氏、読者の方々から文章の内容を厳しくチェックされるわけです。当時は今ほどにはインターネット、ウェブ業界が発展していなかったのですが、すでに「2ちゃんねる」などの掲示板は存在していて、そこでは僕に対する罵詈雑言が幾つも飛び交っていました。サッカーの原稿を書くことの影響とリスク。自らの仕事を評価する厳しい目は、内ではなく外にある。僕はいきなり、それを認識させられたのです。
ただ、浦和の担当記者として過ごした年月は本当に有意義で、発見の連続でした。例えば2002年、2003年にチームの指揮を執ったハンス・オフト監督(元日本代表監督など)には、監督の業務、戦術面などの考察などをマンツーマンで教授して頂き、「サッカー記者とはこうあるべきだ」という訓示を頂いたこともあります。また、福田正博氏(現・サッカー解説者など)、鈴木啓太氏(現・サッカー解説者、実業家)、平川忠亮選手(浦和)、坪井慶介選手(湘南)など、新人記者の頃に出会った選手たちとは職業の垣根を越えた関係を築くことができ、自らの人生のおいても貴重で得難い経験ができました。
また、浦和以外では日本代表の担当記者として取材した2004年のアジアカップがとても印象に残っています。当時反日の嵐が吹き荒れていた中国・重慶でイラン、オマーン、タイと同組になったグループリーグを勝ち抜いた日本代表は、決勝トーナメント1回戦でヨルダンとの死闘の末、PK戦で準々決勝進出を決めました。試合後の重慶スタジアムは多くの地元中国人の方々が取り囲んで外に出られない状況になりましたが、試合の第一報を伝える原稿に僕が「重慶脱出成功セリ」というタイトルを付けたら、翌週の雑誌の表紙にその言葉が記されていて、一記者としてとても嬉しかったのを覚えています。その後、日本は決勝まで勝ち進んで北京で地元の中国代表と対戦して勝利し、タイトルを獲得。史上最も厳しいアウェーと言われた大会を制した日本代表を、とても頼もしく感じましたね。
 

これからもずっと浦和レッズの歴史を紡いでいくために

2006年、日本代表がドイツワールドカップでグループリーグ敗退に終わった夏に、僕はサッカーダイジェスト編集部の職を辞してフリーに転身しました。直近の収入などに不安はありましたが、印刷会社を辞めた5年前よりは将来を見据えた心持ちもありました。専門誌記者時代に培った経験を生かし、より専門的に、ひとつのクラブ、チームを定点観測したいという思いから個人事業主の立場で活動しようと思い立ったのです。そして2006シーズン、浦和は悲願のJリーグ優勝を達成し、僕もまた、初めて優勝原稿なるものを執筆しました。ずっと見てきたチームが最終目標に到達したときの感慨というのはこれほど深いものなのかと、メディアである自分自身も達成感に浸りましたね。それから11年間、浦和はリーグタイトルを奪還できていないわけですから、今でもリーグを制することの意義、その偉業を再認識しています。
昨年のYBCルヴァンカップを制した浦和レッズは、2017年8月15日に「スルガ銀行チャンピオンシップ2017 SAITAMA」でコパ・スダメリカーナ王者のシャペコエンセ(ブラジル)と対戦します。昨年11月、コパ・スダメリカーナ決勝第1戦の場へ向かうコロンビア上空でシャペコエンセの監督、選手、スタッフが搭乗した飛行機が墜落したとの一報を受けたときは胸を締め付けられる思いでした。そのシャペコエンセが、今回南米王者として浦和と対戦する。サッカーファミリーの一員として、この貴重な機会に記者の立場として携わることに使命感を覚えています。浦和レッズのサポーターは時に熱狂的と称され、その言動や行動が物議を醸すこともあります。でも僕は、彼ら、彼女らが情熱に溢れ、人情味のあるサポーターであることを知っています。8月15日の埼玉スタジアムはエモーショナルな熱気に包まれる中で、カップ戦王者同士が雌雄を決する最高の舞台になると確信しています。
40代も半ばを過ぎた僕は今でも浦和レッズの取材活動を続け、元浦和レッズの選手として活躍した福田正博氏と共に『浦研プラス』(http://www.targma.jp/urakenplus/)という有料会員制サイトを立ち上げ、日々浦和に関する情報を発信する活動を行っています。
そんな中、思うことがあります。もし僕がいなくなっても、サッカークラブは在り続け、応援し、支えるサポーターも同じく存在し続けます。それを考えた時、メディアの世界においても、僕自身が次世代へ繋ぐ何かの貢献ができないかと思い至りました。僕は記者、編集者、執筆者としての経験をさせてもらいましたから、そのノウハウを誰かに伝え、新たな人材がサッカー界で活躍できるような素地を生みたい。そこで、2年前に仲間と共に株式会社を設立し、個人事業主から経営者へと身分を変え、新たなアプローチでサッカーという競技に関わろうと思い立ちました。たとえ僕の執筆活動が終わっても、意欲的で好奇心旺盛な次世代の記者が浦和レッズというクラブを論じ、その魅力を提供してくれたら、それに勝る喜びはありません。
ただ現状は、まだまだ僕も自らの成長を目指しています。挑戦の日々は終わりません。今は新たな場所、新たな視点、新たな立場から浦和レッズを定点観測する試みをしようと考えています。その内容については今後、折を見て皆様にご報告致したいと思っております。
 

島崎 英純が選んだベスト11

島崎英純が選ぶ、取材経験のある日本人Jリーガーベスト11

フォーメーション:4-4-2 監督:イビチャ・オシム(元日本代表監督、千葉監督)
 
GK
川口能活(横浜FM - ポーツマス - ノアシェラン - 磐田 - 岐阜 - 相模原)
DF
内田篤人(鹿島 - シャルケ)、吉田麻也(名古屋 - VVV - サウサンプトン)、中澤佑二(横浜FM)、長友佑都(FC東京 - インテル)
MF
長谷部誠(浦和 - フランクフルト)、遠藤保仁(京都 - G大阪)、阿部勇樹(千葉 - 浦和 - レスター - 浦和)、中村憲剛(川崎)
FW 
福田正博(浦和)、田中達也(浦和 - 新潟)
 
 
僕が取材活動を始めた2001シーズンから現在までの日本人Jリーガーでベスト11を組んでみました。
イビチャ・オシム監督はジェフ千葉時代に見せたスーパーカウンター、11人全員が等しく攻守の責任を負うオールラウンドサッカーに驚愕しました。オシム監督が浦和戦後に語った「浦和の敵は浦和」という言葉も深く心に残っています。GKの川口能活は2004アジアカップの奮闘が目に焼き付いていて、それはDFの中澤佑二も同じ。吉田麻也は名古屋在籍時代に初めてプレーを観た時に、こんなに足下の技術が備わったDFがいるんだなと驚嘆し、新たな時代の到来を予感しました。両サイドバックは長友佑都、内田篤人。共に海外へ旅立ちましたが、彼らはJリーグでプレーしていたときから潜在能力の高さが際立っていました。特に内田の、自らの力をチームに還元させる聡明さは突出していましたね。長谷部は浦和時代は主にトップ下で、性格も今のようにリーダー的ではなく、どちらかというとヤンチャだったんですが(笑)、これほど選手として、人間として成長した人物を知りません。遠藤保仁は戦況を読む目、試合状況を見極めて選択するプレーの数々が日本人離れしていて、対戦相手に彼がいると「嫌だなぁ」と思わせる選手。そして、実は個人的に最もプレースタイルが好きなのは中村憲剛。明るい性格でありながらチームを牽引する統率力があり、パス、シュートの選択が小気味良くて爽快。浦和にとっては常に憎き敵ですが(笑)、素晴らしいMFだと思います。阿部勇樹は、一見すると大人しい人物に見えますが、内面はとても情熱的で、何よりチームのために献身できる選手。彼の場合はプレーと共に、サッカーと向き合う真摯な姿勢に深く感銘を受けています。そして2トップは浦和のFWコンビ。福田さんは今まさにリアルタイムで共にお仕事をさせて頂いている大先輩。田中達也は、僕にとって永遠のアイドル。全世界のサッカープレイヤーの中で誰が好きかと問われたら「田中達也!」と即答します。これ、本人にも言っています(笑)。
 

島崎 英純 プロフィール

島崎 英純(シマザキ ヒデズミ)

島崎 英純プロフィール

1970年生まれ、東京都出身。2001年7月からサッカー専門誌『週刊サッカーダイジェスト』編集部に勤務し、5年間、浦和レッズ担当記者を務める。2006年8月よりフリーとして活動し、現在は、浦和レッズ、日本代表を中心に取材活動。また、浦和OBの福田正博氏と共にウェブマガジン『浦研プラス』(http://www.targma.jp/urakenplus/)を配信。ほぼ毎日、浦和レッズ関連の情報やチーム分析、動画、選手コラムなどの原稿を更新している。
 

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