サッカーを愛して止まないあの人の ゆめのはなし

Jリーガーとして11年間活躍された外池大亮さん。現役引退後は大手広告代理店の営業マン、のちにサッカー番組のプロデューサーとしてスポーツ界を支えてきた。そんな外池さんが、2018年から母校である早稲田大学ア式蹴球部の監督に就任している。掲げたビジョンは、日本をリードする存在になる『WASEDA the 1st』。大学サッカー界に新風を巻き起こすべく、再びピッチに帰ってきた。

節目の年に就任した早稲田大ア式蹴球部監督

このたび、2018年度から出身校である早稲田大学ア式蹴球部の監督に就任しました。Jリーガーとして11年間プレーし、現役引退後は電通で5年、スカパー!で5年の計10年間、社会人経験を積ませていただきました。そして今年が節目の年でもあったため、新しい変化を加えたいと思っている中、そうそうたるOBの方々がいるにもかかわらず、監督としてのご指名をいただけたことを光栄に思っております。現役を退いたあとは、電通の営業として、スカパー!で番組制作に携わる立場を続けてきましたが、今後の自分自身のキャリアを構築していく上で、イニシアティブを握り、組織を動かしていくようなマネジメントの立場を一度は経験したいと思っていました。今回の監督就任の話は、ありがたい限りです。あらためてこの場を借りて御礼申しあげます。
なぜ、私に監督就任のオファーがあったのか。その背景には今でこそ1部復帰を果たしましたが、ア式蹴球部が関東大学リーグ2部に降格したことで、コーチングスタッフの体制に変化を与えるべき、という議論が沸き起こったからと聞いています。現状の大学サッカー界にふさわしい監督像はどのようなものなのか。それを考えた場合、大学卒業後もサッカーを続けられる学生は一握りです。大半の選手たちは卒業後、社会に出て生きていくことになります。サッカー界を含めて、広く優秀な人材を輩出していくことが早稲田大学における使命の一つでもありますから、サッカーの競技面だけではなく、ア式蹴球部のOBが、社会に出たあとも一人前の社会人として社会で活躍できる人材を育てられる指導者が現状の大学サッカー界にふさわしい監督像なのではないか。大学側とOBによって、さまざまな議論が展開された結果、社会人経験も有したOBである私に監督就任の白羽の矢が立ったようです。なにより歴史と伝統ある組織ですから責任の重さを痛感しておりますが、ご指名いただいた方々、また多くの早稲田関係者の期待に応えられるように、精一杯努めさせていただきます。
2007シーズン限りで現役を退いたあとは、現役時代のインターンなどの縁もあり、広告代理店の電通で営業マンとして、日本代表のオフィシャルスポンサーであるキリンや、天皇杯やスルガ銀行チャンピオンシップに協賛いただいているスルガ銀行の営業窓口として仕事をさせていただきました。33歳で電通に入った社会人1年目は、サッカーのことしか知らず、右も左も分からなかったため、社会人としてイチからビジネススキルを叩き込まれました。パソコンのタイピングや議事録の書き方に始まり、資料のクリッピングまで、あの1年があったおかげで社会人として仕事ができる基礎が身につきました。働き先として受け入れてくださり、イチから教育していただいた電通にはたいへん感謝しています。
2年目以降はなんとか会社の力になろうと、キリンの担当として日本代表戦周りの運営やイベント、テレビ関係の仕事に従事してきました。サッカー事業部に入ったあとは、スルガ銀行の担当として、天皇杯やスルガ銀行チャンピオンシップを盛り上げるお手伝いをしてきました。現在、天皇杯ではジャイアントキリングなど、最も天皇杯らしい旋風を巻き起こしたチームの「天皇杯を象徴するゴール」を表彰する『SURUGA I DREAM Award』を展開しています。実はこの企画の発案に強く関わらせていただきました(笑)。この賞が取り上げられることが、広く競技者の夢に繋がり、それがクライアントさんのPRにつながると、アイディアを出した結果、企画が実現しました。
そして電通で5年間勤務したあとは、スカパー!でサッカー事業に従事しています。サッカー界へ影響を与えられる仕事をしていくには、メディアかスポンサー企業が最適かなと考えていました。07年から10シーズンにわたって、Jリーグのオフィシャルブロードキャスティングパートナーを務めてきたスカパー!は、その両面の要素を併せ持った会社だったので、入社が決まった際は大変うれしかったです
 

人生の転機は甲府加入決定までの期間

あらためて現役時代を振り返ると、もがき苦しんで一つのことを突き詰めてきたことが、意味のあることとしていまにつながっていると痛感しています。2002年限りで横浜F・マリノスを契約満了となり、次の年にプレーするチームがないかもしれない……といった状況に陥ると、否が応でも人生について、思い詰めて考えるようになります。ただ追い込まれる状況に陥ったことが、考え方を変える転機になりました。その意味ではマリノスを契約満了となり、甲府に新天地が決まるまでの期間が、現役時代で一番印象に残っているかもしれません。
2002年は日韓W杯が終わり、サッカー界がすごく盛り上がっている中で、自分はあまり試合に絡めず、どこかサッカー界から置いていかれるような気持ちになりました。その一方でマリノスの選手だったので、次のチームはすぐに決まるだろうとも思っていましたが、サッカーをプレーする居場所がない状況は続きました。トライアウトにも参加してゴールも決めましたし、いけるかなと思っていましたが、それは自分の物差しでしかありませんでした。2月になっても次のチームが決まらず、「引退するというのはこういうことか……」と現役引退が現実のものとして視界に入ってきました。そんなとき、2月中旬あたりだったと思いますが、甲府で3日間のテストを受けたらと、トレーニングに呼ばれました。
ただ、練習に参加しても知っている選手はいなかったですし、気候も寒くて雪も降っているコンディションだったため、「とんでもないところに来てしまった……」と。しかも、練習参加の最終日前日には両足の爪が剥がれてしまって、最悪のコンディションでした。テスト最終日に行われたトレーニングマッチではボランチの役割をこなしながら、ゴール前に上がってシュートを決めればアピールになると考えていたので、その意識でプレーした結果、2点を決めました。
すると、当時の松永英機監督から「獲得したい」と評価され、その後は韮崎のスタジアムで待っていた海野一幸社長(当時、現在は会長)に会うと、「監督が欲しいと言っているけど、ウチはいまこれだけのお金しか出せない。それでもよければココでサインをして」とオファーを受けました。ようやく新天地が決まり、甲府では1年間フル稼働できました。観客動員もシーズン当初は3,000人程度だったものが、シーズンの終盤には8,000人、9,000人と増えていく過程も見ることができましたし、集客に向けた活動にも積極的に参加するなど、企業とクラブの関わりなども実感できました。チームの好成績も追い風となり、少しずつお客さんが増えていく状況を見て、サッカーの力はやはりすごいなと感じました。この甲府という地域の中で、いかにクラブを盛り上げていくか。そういったことも考えるようになっていました。
 

日本をリードする存在になる「WASEDA the 1st」

早稲田ア式蹴球部の監督に就任したことで大変なことも多いですが、毎日がすごく楽しいですね。日本で一番元気のあるべき世代の選手たちと向き合っていくことは自分自身の刺激になりますし、まだまだ人間として成長する上で必要なエッセンスを補完すべきという課題も感じます。現状は少しずつチーム改革を進めている段階です。始動時には、新4年生と新しいチームビジョンを作りました。
これまでのチームビジョンは、人間としてもサッカー選手としても、一番であれという思いが込められていた『WASEDA the 1st』でしたが、新しいチームビジョンには「日本をリードする存在になる」という言葉をプラスした「日本をリードする存在になる『WASEDA the 1st』」に変更しました。サッカー軸だけで考えるのではなく、ア式蹴球部での4年間の活動をやり切ったあと、その経験をどう社会に生かしていくか。それを追求、模索できるマインドを持った集団になろうと、新たなチームビジョンを掲げました。一つのチームビジョンを共有し、学生の枠組みに捉われない、学生の枠を超えた経験や人間としての力を身につけるためにも、分かりやすいキーワードを共有することが多様化した時代、今を生きる学生には必要だと感じたことから、選手たちと一緒になって考えました。
また、チームをマネジメントする上でどんな情報を収集すべきか。まずは自分自身が選手たちのパーソナリティーな部分の情報を知る必要があると感じたため、先日の合宿で約70人と一人15分の面談をする時間を作りました。その面談では監督としてチームをマネジメントするために必要な選手たちのパーソナルな情報を得ることができました。まだまだやるべきことは多いですが、今までの経験を軸にどうやって自分の理想的な監督像を作り上げていくのか。そしてチームをどのようにマネジメントしていくのか。自分なりの答えを選手たちと一緒に見つけていきたいと思っています。
これからもずっと、サッカー界に関わって生きていくことに変わりはないですが、母校である早稲田大学ア式蹴球部の監督に就任したことで、また新たなキャリアを構築していくという違う人生のステージに向かっている期待感でいまは満ちています。少しずつ実績を積み上げて大学サッカー界に新しい空気を、新しい風を吹き込んでいきたいですし、その結果がピッチ上での成果にもつながるように頑張っていきたいと思います。
 

外池 大亮が選んだベスト11

現役時代に影響を受けた人ベスト11

フォーメーション:3-4-2-1  監督:松永章(早稲田大学元監督)
 
※()は外池さんがともにプレーしたチーム
GK
川島永嗣(大宮)
 
DF
左から三浦淳宏(横浜FM)
中澤佑二(横浜FM)
田村雄三(湘南)
 
MF
左から藤田健(甲府)
中町公祐(湘南)
上野良治(横浜FM)
高萩洋次郎(広島)
中村俊輔(横浜FM)
中田英寿(湘南)
 
FW
外池大亮
 
テーマは現役時代に影響を受けた人ベスト11です。
監督は早稲田大時代の松永章さん。現役時代の異名はハイエナ。当時は「ヘソでゴールを決めろ」とよく言われました(笑)。GKは現在の日本代表でもある川島永嗣。彼が大宮でプレーしていた頃は三、四番手のGKでしたが、そんな立ち位置は気にせず、とにかく前向きに元気に練習に取り組んでいたことが印象に残っています。
3バックの中央は中澤佑二。紅白戦などでマークにつかれたときは何もできなかったので、「もうFWはやめよう」と思ってしまうほどでした。3バックのストッパーは田村雄三。湘南で現役を引退したときに彼ならば選手会長を託せると思える選手でした。懐も深いし、人の気持ちがよく分かる。僕が現役を辞めたあと、ベルマーレがJ1に昇格できたので、彼に託して良かったと思えました。よく耐えてやり切ってくれました。左はストッパーで申し訳ないですが、三浦アツ(淳宏)。僕自身は左サイドからのクロスボールに合わせる形が得意でしたから、とにかく(中村)俊輔も含めて、彼らの動きを必ず見るようにしていました。アツは同級生で安心感がありましたが、男気もある選手でした。
中盤のダブルボランチは、中町公祐と上野良治さん。中町は湘南時代から才能があるなと思っていましたが、湘南を退団したあと慶應大学に一度進学して、プロ選手としての道をあらためて切り開きましたよね。上野さんは早稲田大を出てマリノスに行ったことで、僕がその結果、大学で試合に出られるようになりました。すごく気を使う選手だったのですが、実はいま何をしているのか分かりません。これを見て連絡を取り合えるようになるといいのですが……。
そして中盤の左サイドは藤田健。彼と一緒にプレーするまではいかにボールに合わせるか。それが自分の生きる道だと思っていたのですが、藤田を見て、周りの選手の良さを生かすこと、引き出すことがいかに重要か。それを痛感し、考え方が変わるきっかけになりました。右サイドは高萩洋次郎。彼は高校3年生でプロ契約をしている選手でした。紅白戦で一緒にプレーをしても、むちゃくちゃうまいですし、10歳ぐらい年下でしたが、「こんなうまい選手が出てくると自分の未来は長くないな……」と悟りました。「もう一花咲かそう!」と広島へ意気込んで移籍をしましたが、逆に返り討ちにあったような気分になりました。
トップ下は俊輔とヒデ(中田英寿)。ヒデは二つ年下でしたが、衝撃を受けました。当時の植木(繁晴)監督は「ボールを持ったらヒデにパスを出せ」と言うほど、ヒデ中心のチームを作っていました。ウォーミングアップでのパススピードの速さは、今でも印象に残っています。俊輔は三つ年下でしが、当時練習中、彼のボールの軌道ばかりをイメージし、合わせにいくことに無心で取り組みました。
1トップは恐縮ですが、外池大亮が務めます。周りの選手たちに良いボールを出していただいて、ゴールを決める役割を全うしたいと思います。
 
 

外池 大亮 プロフィール

外池 大亮(トノイケ ダイスケ)

外池 大亮プロフィール

1975年1月29日生まれ、43歳。神奈川県横浜市出身。早稲田実業高校から早稲田大学に進学し、大学卒業後の97年にベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)に加入。プロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせた。平塚加入後は横浜F・マリノス→大宮アルディージャ→横浜F・マリノス→ヴァンフォーレ甲府→サンフレッチェ広島→モンテディオ山形→湘南でプレーし、07シーズン限りで現役を引退。引退後は、電通やスカパー!に勤務。18年にスカパー!に籍を置きながら、母校である早稲田大学のア式蹴球部監督に就任した。
 

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