サッカーを愛して止まないあの人の ゆめのはなし

ガンバ大阪やヴィッセル神戸に在籍した元サッカー日本代表FWの永島昭浩さん。現在は日本サッカー協会の国際委員、日本代表OBOG会幹事、そして報道番組のスポーツキャスターなど精力的に活動している。

気がつけばテレビの世界で15年

2000年に現役を引退した後、指導者になりたいという思いを持っていました。そのためにはまず伝えることを勉強するために解説の仕事から始めるのが良いのではないかというお話をいただきこの世界に入りましたが、気が付けば15年も経ちます(笑)。2015年には日本大学大学院に入学し、スポーツ全般のマーケティングやマネジメントを勉強していました。サッカーもビジネスの一つだということを、様々な視点から幅広く研究することで、サッカーに対する見方が変わったと感じています。日本サッカーは今後どうしていくべきなのか、大学院で学んだことのイメージやアイデアを還元し、貢献できればと考えています。
 

社会人として働きながらプレーした現役時代

僕はJリーグが開幕するまでは、会社員として働きながらサッカーをしていました。松下電器産業(現パナソニック)のシステムキッチン事業部で品質管理などを行っていました。
朝は6時に寮を出発してバスと電車に乗り、7時過ぎには出社、食堂で朝食を摂り、新聞を読んで、掃除やラジオ体操を終えると、8時頃から朝会がスタート。昼食後に練習、それが終わると寮に帰って、22時頃には就寝、といった生活の繰り返しでした。そこでは、社会人としての最低限のイロハを身に付けることができましたし、松下電器の社員として様々なことを学べたと思っています。そのような環境からJリーグが創設され、一瞬にして世界が変わりました。以前から世界一の選手になりたいという思いは持っていたので、サッカーへの向き合い方は変わりませんでしたが、例えば梅田や心斎橋などの繁華街を歩いたときの周りの人たちの反応は全然違いましたし、ちょっと普通には歩けないほどでした(笑)。
Jリーグ開幕戦(93年5月16日浦和戦)での光景は、今でも忘れられません。当時は観客の方がチアホーンを吹いてよい時代で、その音と、観客の皆さんが振っているフラッグの波を見て、『サッカー界もここまで来たか』と感動するものがありました。実は僕がジーンと来た瞬間はもう一つあって、それは日本代表のデビュー戦。91年7月、長崎での日韓戦だったのですが、整列して国歌が流れたときに足が震え出して……そのまま試合が始まって10分ほどは震えが止まらなかったのを覚えています。やはり、日の丸の重みは想像以上のものでしたし、自分のイメージを超えたものが、目の前で起きている感覚でした。今は様々な競技の代表選手を取材することがありますが、オリンピックなどで同じような感覚になる選手の気持ちがよく分かります。
 

阪神・淡路大震災の中でつかみ取った昇格

95年の阪神・淡路大震災、当時は清水エスパルスに所属していました。
震災の一報があってから、キャンプ地の静岡から実家の神戸に入るまで丸一日かかりましたが、実家も全壊で、周辺は火の海。その後しばらくは避難所に食料を届けるなどといった活動をしていく中で、本当にサッカーをしていて良いのかなというのが正直な思いでした。その経験を通して、サッカーで生活のできる環境がいかに恵まれているか、しみじみと感じましたし、そういった状況下でも大きなチャレンジをできる環境に感謝しなければならないという気持ちでいっぱいになり、その年の夏にヴィッセル神戸への移籍を決意しました。
そうした中でサッカーを続け、1996年にヴィッセル神戸がJリーグに昇格したときが、サッカー人生の中で最も嬉しかった瞬間です。クラブ、チームを超えた神戸市民の後押しもあって、昇格を決めたときは万感の思いでした。
 
 

世界各国で知るサッカーのチカラ

引退してからはサッカーの勉強やJICA(国際協力機構)のプロジェクトを中心に、世界15か国以上は訪れていて、様々なことを勉強させてもらっています。
例えばネパールは100以上の民族から構成されていて、色々な問題がある中でコミュニティを作ろうとしても、多くの民族を越えて交わるものが何一つないと。でも唯一この国を一つにできる、心を動かすことができるのはサッカーではないかと現地の方が言っていて、サッカーのネパール代表が活躍しているときは、民族を越えて国が一つになるそうです。サッカーでなくてもできるかもしれないですが、世界で一番ポピュラーであり、他の国を相手にチャレンジできるチャンスがあるという部分では、サッカーというスポーツはすごく大きな力を秘めていると思いますね。
カメルーンでも印象的なことがありました。現地の子供たちは普段、ペットボトルをぐしゃぐしゃに潰して、それをサッカーボール代わりにしてトレーニングしています。ですから、日本からサッカーボールを持っていくと、本当に喧嘩になるくらいの奪い合いになるんです。そのくらいサッカーボールに飢えている子がいる現実がありました。男女混合でミニゲームをしようとしたのですが、コートを作った所が坂道で、大きさも25m×15mくらいと小さく、さらに大きい石がコート上にゴロゴロしているような場所でした。僕は『まず、一人10個大きな石を拾ってコートの外に出そう』ということから始めようとしたのですが、彼らはそれでも一刻も早くそこでサッカーがしたいという感じでした。サッカーの原点というか、小学生の女の子でさえボールに突っ込んでいくのを見て、非常に心が動きました。
もちろん、日本の子供たちがチャレンジをしていないというわけではないです。ただ海外の現状を目にするほど、上に行ける環境、日本の子供たちの環境が世界では普通ではないよということを伝えていかなければならないと思っています。少し違った見方をすると、カメルーンで必死にやっていた子供達の中から、エムボマのように大きな夢をつかんでいる、Jリーガーよりも上手くなっているような人がいるということです。
引退してからの学びの量は、現役時代とは比べ物にならないくらい多いです。これまでは『自分』や『サッカー』を主語としていましたが、『社会』を主語にしたときの日本のサッカー、もっと大きな枠の中でサッカーはどうあるべきかと考えると、まだまだ自分は小さな世界で活動していると思います。世界中の国々でサッカーは社会の中での存在が大きくなっていますし、そこが日本では成熟していない部分だと感じます。そういった“グローバル視点”を持った上で現役生活を送っていたら、全く違う選手になっていたと思います。
 

メディア側に立って初めて分かること

Jリーグがこうして25年目を迎えられた理由は、メディアの方々に露出をしてもらって認知されることによって、入場料収入やスポンサー収入という、様々な資金が生まれたからです。
選手は、その一部をサラリーとしてもらっています。これが世の中の仕組みです。僕もメディア側で仕事をするようになって初めて分かったのですが、例えば数分のニュースであっても、取材やその後の編集作業など放送に流すまでの準備には何時間も要します。そういった仕組みを知らない選手もいますし、彼らに誰が教育をしていくのかという点では、僕が伝えていくことも多くあると思っています。
僕は15年ほどニュースに出演してきた中で、元総理大臣や文部科学大臣といった方々にお会いする機会がありました。正直、最初はその意図が分からなかったのですが、今になって感じるのは、本当にたくさんの方向からサッカー界を支えてもらっていて、そのおかげで大会や試合が開催できているということです。そういった支えを無駄にしないためにサッカー界が目標を定めて、何をしなければいけないかをしっかりと考えることがとても大事だと思います。引退してから勉強すればするほど、そのようなことを強く考えるようになりました。
JFA2005年宣言では、2050年までに『サッカーファミリーが1000万人になる』、『FIFAワールドカップを日本で開催し、日本代表チームはその大会で優勝チームとなる』と掲げられています。それに向けて、自分も微力ながら何かを残していければと思っています。
 

永島 昭浩が選んだベスト11

ガンバ大阪、歴代ベストイレブン

ガンバ大阪が誇る各国の代表クラスであり、このメンバーで戦ったら面白いと思う11人です。
個人的には、背番号がなくても『あの走り方はあいつだ、あのプレーの仕方はあいつだよな』と思われる特徴ある選手になってもらいたいという気持ちがあります。今回選んだ選手は、背番号を見なくても分かる、個性のある選手たちです。それは監督の釜本さんも含めてです(笑)。
私もイレブンに入れましたが、コンビを組むエムボマから見て、僕ならば顔の濃さで受け入れてくれるかなと(笑)。
エムボマは個人能力が高い選手ではありますが、僕がコンビを組めばアシストであったり、彼のポテンシャルを引き出せたりすることができるのではないかなと思います。現役選手の3人のうち、特に藤春に関しては、今のレベルで満足してもらいたくないですし、もっと上手くなる余地があると思っているので、期待値込みで選出しました。
 

永島 昭浩 プロフィール

永島 昭浩(ナガシマ アキヒロ)

永島 昭浩プロフィール

1964年生まれ。1983年松下電器産業(現ガンバ大阪)に加入。泥臭い得点を演出する本格的ストライカーとして活躍。1994年に清水エスパルスに移籍。同年に出場したオールスターでは、決勝点を挙げMVPに輝く。1995年1月17日、阪神・淡路大震災で実家が全壊し、「街を勇気づけたい」とシーズン途中からJFLのヴィッセル神戸へ移籍。1996年、神戸はJFL2位でJリーグ入りを決める。1997年、現役最年長ストライカーとして全試合に出場し、日本人最多の22点を挙げ、フェアプレー個人賞を獲得。2000年に惜しまれつつも現役を引退。引退後は、JFAアンバサダーとしてサッカーの普及活動に尽力。現在は、サッカースクール等で後進の指導に携わるとともに、スポーツキャスターとしてテレビ・トークショー・講演会等マルチに活動中。
 

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